novels
ユニオンジャックと東京タワー
例年に無いほど、まだ暑い１０月。
神田淡路町にある、縦長のオフィスビルの玄関を出てすぐ、目に飛び込んできたのは、大きなユニオンジャックだった。
そして、その隣には、小ぶりではあるが立派な薔薇の花束を抱えた、金髪の若い男が立っていた。
私は、一瞬足が止まった。
まったくの予想外だったわけではないが、まさか本当に来るとは思っていなかったから。
彼は、私に気づくと、両手を挙げ、花束を振り回さんばかりの勢いで、声をあげた。
「亜希子さんっ！ハッピーバースディ！」
私と彼の間の距離は、わずか４メートルほどの歩道をはさんだだけだった。そんなに大声あげなくても聞こえるってば。恥をかかせるつもり！？
彼は、黒い背広を颯爽と着こなし、軽々とガードレールを乗り越え、私に近づき、がさっと花束を鼻先に突きつけて言った。「ハイ。おめでとうっ。」
その勢いに気おされつつも、なんとか受け取り、かろうじて、「ありがとう。」とだけは言えた。
「亜希子さん、何が好きなのかわからなかったから、花屋さんでてきとーに見繕ってもらったんだけど。気に入ってくれたかな？」
と、彼は根元だけ黒い、金色の長髪に手をやりながら言った。サングラスの奥の目は見えなかったけれど、どうやら照れているらしい。
しかし、「てきとーに見繕って」とは何事？と一瞬考えたが、まあ、彼らしいか、と私は少し相好を崩した。
彼の車はミニクーパーだった。天井に大きなユニオンジャックが描かれた、紺色の小さい車だ。
助手席のドアを開けてもらい、中に入ると、外から見るよりは広く感じたけれど、身長162センチの私には、ちょうどよかった。
「……初めて見る車ね。」
と私が言うと、彼は満面の笑みを浮かべて言った。
「そう！そうなんですよ。いいでしょ？これ。前に亜希子さんが好きだっていっていたじゃないですか。だから、ちょっと無理して買ったんですよ！もちろん中古なんですけれどね。」
ちょっと、待て。
私は格別にこの車が好きだなんて言ったことはない。
確かに過去に一度だけ、路上に駐車してあるのを見かけて「この車、カワイイよね。」と言ったことはあるけれど。まさか、それを真に受けて決して安くない買い物をしたってこと？
でも、私にはそれを言うのははばかられた。少し微笑んで答えの代わりとした。
「しかし、よかったー。亜希子さん、いつも平気で終電くらいまで仕事でしょう？かといって、驚かすためには何時ごろ仕事終わるか、なんて聞けないじゃないですか。だから、定時が１８時だったなーと思って、待っていたんですよ。思ったより早くてよかったー。」
彼はそう、軽く言う。
今は既に２1時だ。３時間もあそこで花束を抱えて待っていたってこと！？
「連絡してくれればよかったのに。」
私だって好き好んで誕生日に残業していたわけではない。けれど、誕生日だからなどという理由だけで仕事が無くならないのも事実だ。
彼は予想より早く私が現れたことを単純に喜びながら、へたくそな鼻歌を歌いながらサイドブレーキをおろし、車を発進させた。
私は、例え終電近くまで仕事をしていたとしても、彼なら今度は私が現れたことについて喜ぶのだろうなと思いながら、横顔を盗み見た。綺麗なストレートの髪の隙間から、十字架のピアスが少しだけ見えた。
車の減り始めた東京都内に、ミニの低いエグゾーストのエンジン音がこだまする。
この怪しい風貌の彼は、私より５つ年下で、名前を「瑞樹」という。私が大学生だった当時、家庭教師のアルバイトをしていたときの生徒だったのだ。
そのときから、私のことを気に入ってくれて、ことあるたびに私に声をかけ、誘い出し、デートだと喜んだ。
私だって悪い気はしなかった。文学系の地味な大学の、地味な格好をした私を気にかけてくれ、なおかつ、何の因果か文学とまったく関係の無いソフトハウスに拾ってもらった地味なプログラマ見習の私になってさえも、相変わらず好意を寄せてくれているなんて。
だけれど、彼は私に対していわゆる告白というものをしなかったし、私の身体を求めてくるようなこともなかった。ご褒美と称して二度だけ軽いキスはしたけれど。
彼は知っていたからだ。
私は、妻子ある男性と、もう６年越しの付き合いをしている。
きっかけは単純だった。その人とは、私の父親の部内旅行のキャンプの手伝いに行ったときに知り合った。「お父さんにいつもしごかれている、部下の山崎です。」と名乗ったその男は、誠実でさわやかな印象を全身ににじませた、普通の２６歳の青年だった。
もっとも、当時、山崎さんは結婚してはいなかった。ごく普通の恋愛であり、ごく普通の付き合いだったと今でも思っている。
一つだけ違っていたのは、山崎さんが二股を貫き、私ではない女性と結婚した後も、私は山崎さんとの付き合いを続けたということだ。
相手が結婚したからと、簡単に嫌いになれるのならば、こんな楽なことはない。
それを期にさっさと別れて、私は新しい恋愛に、彼は家庭を守ることに専念できるのであれば。けれど、ことはそううまくはいかない。私はあきらめなかったし、彼も私をふらなかった。
私は恋愛の経験が豊富なわけじゃないからか、そういうことがよくわからないことがある。世間一般から見たら、私は変わっているのかな？そういう山崎さんの優柔不断なところも好きって、それって変？
けれど私だって、いつまでもこのままでいいとは思っていない。すっきりさっぱりさわやかに、世間様に後ろ指さされることなく、幸せな恋愛をしていきたいと思うことだってある。
そんな思いが滲んでいたのだろうか。このところ山崎さんは、私のことを大事に思っていない気がする。ようやく私を切り捨てる準備でもはじめたのだろうか。
ライバルが増えたことが確実に影響しているのかなと思う。
「娘はやっぱり、カワイイよ。ちょっとしたしぐさとか、俺に似ているんだよね。でも、寝ているときの顔は、妻に似ていたりしてな。」
そんな風に照れくさげに話されると、私は否が応でも、今までの山崎さんからの愛情が1/2から1/3になってしまったことに気づかされる。
今日だって、デートに誘われなかった。クリスマスでも、お正月でもない。私の誕生日は、山崎さんの家庭にはまったく影響の無い日だというのに。携帯電話にメールは入っていた。ハッピーバースデイ、おめでとう亜希子。とだけ。
ひょっとすると。
もうお互い恋愛というものに執着が無くて,もったいない、面倒くさいという理由で別れないのかななんて思ったり。
事実私は熱い恋愛に飢えていない。元々そんなに熱心なほうじゃなかったけどさ。
だけど、なんだか、やっぱり。ずる、ずる、ずる。
瑞樹と私を乗せたミニクーパーは、首都高速に入った。
瑞樹はいつになく饒舌だった。大学のサークルでの話、バイト先であった面白い話、ゆうべインターネットで発見したおかしなページの話。
私はそのいちいちにうなずきながら、だけどどこか上の空でいた。
窓から入ってくる、少し生暖かい風が私の前髪を揺らした。ミニの冷房が効きが悪くて、少し汗ばむくらいだったけれど、不快には感じなかった。
瑞樹の話が少し途切れた瞬間、窓の外を流れていく景色に東京タワーが見えた。
オレンジ色にライトアップされたタワーは、東京につきたてられたフォークのように見えた。
はっきりと言い放つでもなく、そうつぶやいた私に、瑞樹は、
「亜希子さんって、さすがに面白いものの見方をするよね。」と本気で関心して見せ、「じゃあ、東京はスパゲティなんだね？」と、さらに真顔で答えた。
私は、そうねえ、と軽く頷いた。ぐしゅぐしゅになった私のはっきりしない気持ちも、するっとオリーブオイルにまみれて、絡めとってくれたらいいのに。
急なカーヴでも、瑞樹はあまり減速をしない。巧みなギアのチェンジとハンドルさばきで、テレビゲームのようにすり抜ける。
「どこに向かってるの？」
私はカーステレオのスイッチを入れながらたずねた。
スピーカから、私の知らない英語詞の曲が流れてきた。
「これから湾岸線に入ります。お台場とか行こうかなって。」
瑞樹は、ホントは内緒で連れて行きたかったんだけど、というニュアンスを滲ませつつそう言った。
「だって、お台場って駐車場安いんですよ。一日で千円とかなんですから。」
どうして、ここでそういう話をするかな？というくらい絶妙なバッドタイミングで瑞樹はそう言った。
「……瑞樹くんって、もてるんじゃないの？」
私は唐突にそう聞く。瑞樹は案の定、へ？と妙に高い声を出した。
「どうなんすかねえ？サークルの後輩なんかから時々告白されたりしますけどね。でも、なんだろう、モテてるってのと、愛されてるっての、違うよーな気がして。こんなこと言うと友達に、贅沢だとか蹴りくらうんですけどね。」
瑞樹は、誠実だ、と思った。私はその答えに満足して、微笑んだ。
カーステレオの外国人女性は、
You're all I need,you're all I need,you're all I need.
と、力強く繰り返し歌っていた。
ミニを駐車場に入れ、私と瑞樹は外に出た。
もう消え始めた窓の明かりもあるけれど、林立するビルや、アミューズメント施設の明かりで、この臨海都市は、まだまだ明るかった。
どこかお店に入るでもなく、私と瑞樹は広い道路の端を歩いた。
昼間の暑さはだいぶひいて、紺色の空には金色に輝く月が少しニヒルな笑みを浮かべて、見下ろしていた。
どんなときでも饒舌なはずの瑞樹がさっきから口を開かない。
私は話題を探した。
「ねえ、このお台場ってさ、都市博覧会をやる予定だったんだよね。結局やらなかったけど。それで、こんな広大な土地どうするの？なんてとやかく言われていたけど、なんだかんだで、今、大盛況だねえ。」
瑞樹は、唇の端を少し持ち上げた。笑ったのだろう。そして、サングラスをはずし、胸ポケットにしまいながら、ようやく話し始めた。ただ、それは自分が言おうとしていたことではなく、思考を中断させられて、仕方なく相槌を打つようだった。
「俺もそう思いましたよ。まだまだ工事中の区画が多かったときに、深夜友達の車で来たんですよ。うわー、すげえところだな、しかし、土地まで作っちゃうって、人間ってすげえよなあとか思いましたよ。」
「そうだね。」
それだけ言ってまた瑞樹は黙ってしまった。何かを言おうとしているのは、わかる。私はそれを導きたかった。けれど、私にはそのすべが思い当たらなかった。
見透かしたかのように、瑞樹はゆっくりと話し始める。
「ねえ、亜希子さん。子どもの頃、新しいノート買ってもらったとき、嬉しくなかったですか？俺はね、すげえ嬉しかったな。勉強が好きだったわけじゃない……なんて、家庭教師だった亜希子さんはよく知ってるか。……でもノートだけは別だったなあ。これからこのまっさらな白紙を自分の字や絵で埋めていくんだって思ったら楽しくってね。」
私は声に出さず、無言で頷いた。
「で、大学で教授がこんなこと言ってたんですよ。このお台場について。ここが、空き地だったから、今の栄えたお台場があるんだって。まっさらな土地だったから、ここに新しいものを創ってやろうって、人間は燃えたんだって。たとえば、ここが何かの跡地だったとしたら、こんなに早くはいかなかったんじゃないか？って言うんですよ。少なくとも一旦、本当にまっさらに戻して、そこからはじめただろうから、時間がかかっただろうって。」
うん。よくわかる。
「新しいノートと同じですよね。まっさらだからこそ、燃えるって。」
言葉を区切り、瑞樹は、私の方を向き直って、ねえ、亜希子さん、とまた呼びかけた。
私は既になんだか泣きそうな気持ちになっていた。
「まっさらじゃなければ、自分で白紙にしたいんですよ。俺は。一旦全部、今まで書かれた文字を消しゴムでがしがしと消して、そこからはじめたいんですよ。」
私は立ち止まった。
少し前を歩いていた瑞樹は、私を振り返った。
「俺、疲れちゃった。待ってるの、飽きちゃったよ。何度も、もういいや。愛されてるって感じなくても、俺のこと気に入ってくれた後輩のオンナノコで、いいや。そう、思いましたよ。だけどさあ！」
怒鳴るように瑞樹は言った。一拍置いて、さらに大きな声で、言った。
「俺、亜希子さんじゃなくちゃ嫌なんだよ。」
こんな風に告白されたことなんて無い。
私は急激に頬が熱くなるのを感じた。
「俺が白紙にしたいのはね。」
瑞樹は声のトーンを元に戻して言った。
「あの男のことじゃないんですよ。」
私はぽかんと、瑞樹の顔を見上げた。
「亜希子さん自身なんですよ。こういう言い方ってすげえ生意気だし、何言ってるんだ？っていわれるかもしれないけれど。俺が言いたいのは、亜希子さんを変えたいって意味じゃなくて。俺の好きだった亜希子さんに戻って欲しいんですよ。」
「……今の私は、何かおかしい？」
わかっていた。わかっていたけれど、答えを言葉にして、瑞樹の口から聞きたいと思った。こういうずるさも瑞樹は受け止めてくれるのだろうか？
「別にさ。昔の亜希子さんは輝いてた……なんて青春ドラマみたいなこと言うつもりはないですよ。今だって昔だって、俺にとっては最高の人ですよ。それにさ、亜希子さんがあの男のことを好きで好きでしょうがないっていうなら例えヤツが妻子もちだろうが関係ない。けどさあ。亜希子さん、全然楽しそうじゃないんだもん。」
うん、と、私は頷いた。
「だったら今しかないって思ったんです。亜希子さんが俺のことどう思ってるかってこと考えましたよ。すげえ。でもわからなかった。」
瑞樹は言葉を区切った。
「前に、俺にキスしてくれたこと、覚えてます？ご褒美って言ってさ。あれね、俺には正直複雑だったんですよ。何も言わずにしてくれたなら、俺舞い上がっていたと思うんだ。けど、ご褒美でしょ？俺が亜希子さんのこと好きだって、亜希子さんは知っていて、キスが褒美になるって思ってしてくれたんだとしたら……。」
「それって、残酷だよね。」
私は瑞樹が言おうとしていた言葉を先に口に出して言った。
そう、それはしてしまってからずっとわだかまりとして残っていたことだった。
瑞樹は一瞬ぽかんと口を開いたけれど、すぐに真一文字に結んだ。
「ごめんなさい。私、嫌なヤツだったよね。瑞樹くんがさ、私のこと好きなのかもしれないってことには気づいていたの。だけど、それは私から口に出して言えなかった。あの時私は自分の恋愛を楽しむ余裕を持っていた。だから、あんな高慢な態度が出来たんだろうね。酷いヤツ。」
瑞樹は、いや、とか、そんなとか、私の言葉を否定することを言おうとしていた。けれど、それは最後まで発せられなかった。
私からの答えが聞きたかったのだろう。
私は一つ深呼吸をしてから言った。
「もし、よかったらさ……。」
瑞樹は私の答えを聞いて、笑みを浮かべた。
私もなんだかすっきりした気持ちになった。
私達は、手をつないで車に戻った。
天井に張り付いたユニオンジャックのおかげで、私達の車はすぐに目に付いた。
ミニのエンジン音が地を這い、やがて上空に吸い込まれるように、人工の都市にこだまする。
そしてコンビニに入り、私達は笑いながら消しゴムを買った。