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アリスの八重歯
1
半年がかりで準備して、交渉して、認めてもらって、ようやくなんとかインタビューがとれた解放感からか、俺は帰りの新幹線の中でぐっすりと眠り込んでしまっていた。
ふっと目を開けると列車はすでにビルの谷間にいた。新横浜の手前らしい。
隣を見れば、編集部専属カメラマンの山崎が口を半開きにして眠りこけている。みっともないと感じつつも、数分前の自分も同じだったんだろうなと思って苦笑する。
俺はタバコに火をつけた。つきが悪い１００円ライターに苦戦しているうちに、それに気づいたのか、山崎も目を開けた。
「……うあようっす。東京っすか？」
挨拶なんだか、つぶやきなんだか区別のつかない台詞を吐きながら山崎は伸びをしつつ、倒した座席を戻した。
「ああ。あと二十分ってとこだな。」
俺は時計を見ながらそう言った。
窓ガラスに雨粒があたる。まだ新幹線は速度を落としていないので、かなりの速度で雨が後ろに流れていく。
目を覚ましてから二本目のタバコに火をつけたとき、山崎は、今思い出したという風情で言った。
「そういえば、雨宮さん。相変わらずアリス情報、絶えないらしいっすよ。」
「なんだ？そのアリスって。」
そう言うと、山崎は心底驚いたようだった。一重まぶたの目を精一杯見開く。
「あれっ！？雨宮さん、ホントに知らないんすか！？こないだっから編集部はそれで持ちきりだったんですよ。」
「知らん。俺は今回のインタビューのために、ほとんど一ヶ月これにかかりっきりだったんだ。」
そう言うと、「ま、そりゃそうっすけどね。」とつぶやきながら、山崎は自分のタバコに火をつけた。ジッポの油の匂いがした。
「帰ったら今度はそっちにまわされるんじゃないですか？編集長、これに関して力入れてるみたいだし。雨宮さん、編集長に気に入られてるじゃないですか。」
「……気に入られてるってのとは、違うな、こき使われてるんだよ。」
アリスとやらについては、本当に知らなかったので、山崎の言葉尻を捕まえた。
「はは、そうも言えますね。」
と、山崎は肩で笑い、もう一度姿勢を正すと、根元が黒くなったぼさぼさの金髪を掻きあげた。耳元で金色のピアスが光っていた。
「なんでもね。アリスが出没するらしいんですわ。新宿に。」
山崎はこのアリスに関して、話したくて仕方が無いらしかった。今回のインタビューの仕事がうまくいったこともあり、抗議を飲み込み、話を先に促すことにした。
「なんだよ、それ。新手の風俗か？」
「またー、雨宮さんてば、すぐそれだ。」
「それって、どういうことだ。」
割と本気で訊ねたのだが、山崎はあっさりかわした。
「まさにね、あの本から飛び出してきたような格好してるんだそうですよ。金髪で、青いドレスに、白いエプロンね。」
「だから、それのどこに話題になる要素があるんだよ。そんなのが見たかったら、コミックマーケットとか、コスプレ風俗とか、そういうとこ行けばいっぱいいるんじゃねえのか？アリスの団体が、一グロスとか。ついでに、ウサギや、女王様もいるぜ。」
俺は鼻で笑い、冗談めかして言った。
「ちゃんと最後まで聞いてくださいよー。でね、そのアリスはね、いつも人ごみにたった一人ぽつんと立ってね、胸の前にスケッチブック広げてるんですよ。そこに書いてある言葉は、毎回違うそうなんですけど……。」
「たとえば？」
「『TO HEAVEN』とか『SHOW ME』だそうですよ。」
俺はよくある話だと思った。
その確信を山崎に吐き捨てるように、そのまま伝えた。
「あー。まあね。俺も最初そう思いましたよ。単なる目立ちたがりやじゃんって。俺も現物まだ見てないし、メールとか手紙で見聞きしただけなんですけどね。相当に可愛いんだそうで。なんつーかな、もうそこらへんのグラビアアイドル顔負けっていうかね。お人形っぽいというか。」
だからなんだというのだ。そんなコスプレ娘一人にそんなに世の中が騒ぐものなのか？
「くだらねえな。つーか、既にそいつどこかのプロダクションの娘なんじゃねーの？」
「……いやね、このアリスには、気になる噂があるんですよ。」
山崎は声を潜めた。「今までのも充分噂だろうが。」という俺の台詞を見事に無視して続けた。
「こいつ、オトコらしいんですわ。」
俺は少しだけ言葉を失った。けれど、すぐに思い直す。
「コスプレで女装するなんぞ、珍しくもねえだろ？」
「まだあるんですって。どうやらね。……売ってるって話なんですよ。」
ようやく俺は、そのアリスとやらに興味を持った。しかし、それはほんのわずかな興味だった。下世話で、不真面目な質問ならいくらでも浮かぶ。
俺はため息を一つついていった。
「ま、確かに編集長は好きそうだわ。」
「でしょ？昨日電話したら、ドスの効いたいつもの声で言ってましたよ。『こういうネタを拾ってこそ、東京クイックジャーナルというものだ。』って。」
俺は編集長の姿を思い出した。あっという間にそれは像を結び、イメージはリアルに浮かび上がる。
ショートカットに、シンプルなパンツスーツ。化粧っけが無く、レズビアンであることを隠さない女。当初セクシャルマイノリティを対象としたミニコミを出版していたが、その手腕を買われ、いつのまにか一般雑誌である――と言ってもカウンターカルチャー系の筆頭と言われている――東京クイックジャーナルの編集長にまで上り詰めた女。
学生時代、俺のアパートに転がり込み、いつのまにか同棲していた女。
「雨宮さんは、不思議の国のアリスって読んだことあるんですか？」
山崎は、少し黙った俺に、あまり意味のない質問を投げかけてきた。単に静寂を嫌っただけのことだろう。
「ないな。」
「ですよね。あれは女がガキの頃読むものでしょう。」
山崎は簡単に決めつけた。
「じゃ、オトコノコってやつは、何を読むもんだ？」
そう訊ねると、山崎は一瞬目を大きく見開いた。そして、視線を天井付近に持っていった。考えるとき、もしくは、考えているふりをするとき、こいつはいつもこうする。
「……ジャンプか、マガジンじゃないっすか？」
2
「アリスですか？そうそう、私こないだも見ちゃいましたよ。二度目ですね。先週の木曜日です。友達と新宿に買い物に行ったときなんですけれど。今度は新南口です。人気が少ないから、すっごく目立って。サインは『SHOTME』でした。すごいよね。あの子。学校じゃ英雄ですよ。勇気ありますよね。いくら売ってるってうわさがあっても、あんな目立つことしちゃ、どんな人に買われるかわからないじゃないですか。お金持ちのおじさんがターゲットなら、ほかにいろいろ手段あるのにね。え？あ、やだ。私はやってないですよ。……で、相変わらずアリスちゃんはすっごい綺麗でした。なんだか神聖なものみたいで、近づけないんです。目がね。真剣だもん。いっちゃってるってのとはまた違う……なんていうのかな。ほんと人を寄せ付けないっていう感じ。先輩のある人は、最初人形かと思ったなんて言っていたんですけど、それってすごくわかる！でも、今回見たとき、ちょっとだけ違っていたんですよ。手首に包帯があったんです。リストバンドかと思ったら包帯。しかも、血が滲んでいるんですよー。あ、やっぱり危ない人にやられちゃったのかななんて噂になってます。自分でやったのかなーなんて私は思いましたけど。よく考えるとそういうことしそうに無いな、とかも思うし。私、見とれちゃっていたんですけれど、たまにへんなやつらが囲んだりするじゃないですか。そのとき、アリスってば、どうしたと思います？笑ったんですよ！にっこり。私、もう気絶するかと思った……。あんなに可愛いっていうか、無垢っていうか、そういう笑顔見たこと無い！って感じで……。いつのまにか囲んでいたやつらも居なくなっちゃった。やっぱりわかるんですよね、あの子は汚しちゃいけないって。……で、名残惜しいけど、用事があったのでハンズ行って、帰ってきたとき、もうアリスは居なかったんです。どうしちゃったのかな。誰かに買われたのかな、いい人だったらいいね、なんて友達と話していました。」
俺はいいかげんうんざりしながら、電話を切った。
編集部宛てにアリス目撃情報を寄越したメールや、手紙に電話番号が書いてあった数人にこちらからかけたのだが、どいつもこいつもこんな調子なのだ。今のは、本日の４人目。十五歳の高校生だった。
案の定、東京に帰ってきた翌日から、俺はアリス担当に回された。
編集長はあっさり言ったものだ。
「雨宮くん。アリスくんの件は任せた。十万円までなら、会社の金で落としていいから。買ってでもコメント取ってきて。台割はまた打ち合わせするけど、結構でかくとるから、次号。」
しかし、なんでまた、こうアリスに対して好意的な奴等が多いんだ。
たとえば「頭がおかしいガキだろ？」と吐き捨てる奴とか、既に輪姦した奴等の話などが聞けると思ったのだ。
主にウチの雑誌の読者だから、十代、二十代が多いとはいえ、上は七十代のおっさん、五十代のおばはんまでサンプルはある。いつもなら、どんな記事を載せようが反発してくるというのに。
むしろ、その方が自然だと、俺は思っていた。世論が全部同じ方向を向いたらおしまいだと。
だから、こんなことは初めてだった。
いくつか写真も寄せられていたが、どいつもこいつも下手くそなものばかりで、きっちりした人相さえわからない。なんでこんな風に公共の面前に立っていて、まるで看板のようだというのに、真正面からの写真が無く、隠し撮りみたいなものばかりなんだ？
確かに、綺麗だといわれる由はわかる。オトコだなんて、噂が無ければ考えもしなかっただろう。山崎も言っていたように、人形のようだ。それも、アニメキャラクタのフィギュアのように明るく健全な笑顔ではなく、古い日本人形のようだ。なぜだろう、格好は、アンティークドールに近いはずなのに、印象は市松人形なのだ。
もういい、と俺は思った。
世間様の声はもういい。
俺が、実際に逢ってやる。
デスクのパソコンの電源を落とし、勢いよく立ち上がった。壁にかけられたベネトンの派手な色の時計を見ると、１５時だった。
隣の席に座っていた、去年入ったばかりの松沢は、驚いて俺を見上げた。
「な、なんですか、雨宮さん。」
「松沢。編集長に伝言頼むわ。」
「はいっ。ど、どこにいかれるんですか？取材ですか？」
明らかにおびえている松沢に、俺は精一杯の優しい声で言った。
「不思議の国に行って来るわ。」
3
しかし、俺はその日アリスに会うことは出来なかった。新宿駅の周辺を二周し、手当たり次第に目撃したかどうかを聞いて回ったが、七割近くの人間が、アリスの存在を知ってはいたにも関わらず、今日は見ていないとのことだった。
まあ、俺もいきなり会えるとは思っていない。念のため銀行で金をおろし、財布に十五万は入っていたのだが。
日も暮れたので、携帯で会社に電話を入れた。今日は直帰するから、とだけ電話口に出た松沢に伝える。気弱そうな声で「不思議の国ってどこなんですかぁ。」と言っていたが、無視して切った。
俺はふらりと二丁目方面に歩いた。
雑居ビルの階段を上がり、会員制と書かれた札をちらりと見てから、扉を開く。からんからんと鐘の音が狭い店内に響き渡る。
暗い店内で、厚化粧にドレスの初老の男が、俺を見て顔をほころばせた。
「いらっしゃい。久しぶり、雨宮ちゃん。」
「ん。」と、俺はそっけない返事をする。
そういえば、半年振りくらいだろうか。店内をぐるりと見渡したが、若干の調度品が変わっている程度で、少ないテーブルや古びたカウンタは変わっていなかった。
まだ開店したばかりで、ほかに客はいなかった。奥で、パープルのミニスカートのスーツを着た若い女がテーブルを拭いていた。見たことの無い女だったけれど、俺を振り返って見てにっこり微笑み、「いらっしゃいませ。」と少し太い声で言った。
スツールの端に座る。何も言わないうちにママ（もちろん、最初に見かけたドレスに厚化粧の男のことだ）は、冷蔵庫からビールを出してくる。俺が洋酒が苦手で、何度来てもボトルを入れないことをよく覚えている。
「今日のおつまみ。松前漬け作ったのよ。どうぞ。マイコちゃんが、今日はあとで豚汁作るって言ってたけど。」
しわがれた指先で、小鉢を俺の前に持ってきた。相変わらず仕事は細かい。
「ああ、でも、今日は遅くまでいないから。」
俺はそっけなく言った。おそらくもう一人のあの女がマイコというのだろう。こっちを一瞬見て、少しがっかりした顔をした。悪くない。綺麗だと思うし、少し意地悪く言えば「うまく化けている」と思う。
こういうとき、俺は愛想を振り撒けない。悪いとは思うが、義理で笑いかけてやることも出来ないのだ。
ママは、ＣＤの棚を漁っている。
「でも、本当に久しぶり。今の仕事になってから初めてじゃない？」
そう言いながらＣＤをかける。スピーカから、チャイニーズらしき女性ヴォーカルが流れてきた。相変わらず悪くないセンスだ。
言われてみればそうかもしれない。前の会社をクビになって、少々荒れていたとき、よくここに来たものだった。
この店の落ち着いた雰囲気が当事の俺に合っていたということだろう。それでも、「女性のママ」がやっている店ではなく、ここが常になったのは、俺にも引き寄せられる素質があったということだろうか？当初この店に立ち寄ったのは偶然であったはずだ。もしくは、「ソードテイル」という店の名前に惹かれたからだろうか。
「アリスでしょ。」
磨き上げられたカウンタの艶を眺めながら、らしくもない回想に浸りかけていた俺をママの声が戻した。
俺は苦笑するしかなかった。
「ま、ね。」
積極的に情報を集めようと思ったら、このチャンスに一気に畳み掛けないとつかめない。
これは長年のルポライタ暮らしで身についた戦術だというのに。
でも俺はそうしなかった。なんだか、あさましく餌を求める姿を、この店でさらしたくなかったからかもしれない。
ママは、一瞬だけ、話を続けようかどうかためらったようだった。しかし、ゆっくりと独り言のように続けた。
「アリスはね、この辺りじゃ有名よ。もっとも今は広く一般的に有名かもしれないけれど。この界隈ではもう少し前からね。」
「だろうね。」
「アタシは、あの子のこと、よく知ってるわ。この店にも何度か来たことがあるもの。ただ、その時は普通の『女の子の格好をした男の子』としてね。名前は当時からアリスって名乗っていたわ。おとなしいけれど、あの器量だからね。他の男性のお客さんにもてたわ。ウチとしては、そうやってこの店で商売の交渉をされるのは、歓迎しないけれど。口を挟むのも野暮だから何も言わないでいたわ。アリスは、あっという間に男と二人で消えていった。若い子たちはあんまりよく言ってなかったみたいね。売りが専門なら、街角に立てばいいのにって。事実そうなったから今のアリスがあるんでしょうけれど。」
俺はママの話をぼんやりと聞いていた。やっぱりよくある話じゃねえか。特別なことなんて何もない。少し綺麗な女装娘が売りに走ってやっかまれることなんて日常茶飯事だろう。
なのにどうしてこんなに話が大事になっているかといえば、あの衣装と風貌が世間様にとって、わかりやすかったというだけのことなんじゃないのか？
ママは続けた。
「この店に来なくなってからも、噂だけは入ってきた。狭いからね二丁目も。一度やばい電波系の男につかまってからああなったって話も聞いたわ。因果関係は知らないけれど、やばい男にはまったってのは本当。それからしばらく話も聞かなかったんだけど、お客さんがね驚いて入ってきたことがあったのよ。アリス見たぜって。アリスの奴、本物のアリスになっちゃったって。笑いながら最初は聞いていたんだけど、だんだん居たたまれなくなってね。あの子も壊れちゃったのかしらね。」
俺は少し意外に感じた。それは、結局のところ、「意外性が無さ過ぎる」という意外さだった。なんでこんなに徹頭徹尾わかりやすい話にみんな狂喜しているのだ？
俺はそのまま感想をママに告げた。
すると、ママは笑いながら言った。
「雨宮ちゃんが、擦れ過ぎちゃったんじゃないの？一つのフォークロアとしては、充分過ぎるほど出来すぎた話よ。しかもそれが『アリス』だなんて。」
そうかもしれない。事実そういう視点で取り上げるマスコミもこれから出てくるだろう。気が付くと、マイコがカウンタの中に入り、ママの隣でにこにこと笑っていた。
若いな、と俺は改めて思った。まだ十代後半だろう。女として「最近」生まれ変わった悦びをかみ締めている最中のように思えた。
「マイコちゃん……だっけ？は、アリス見たことあるの？」
「はい。ありますよ。二ヶ月前に一度、先週一度。最初は区役所の近く。二度目は、西口でした。」
はきはきとマイコは答えた。
ママは、今ごろになって「あらいけない」とつぶやき、俺のことをマイコに紹介した。
「こちらね、東京クイックジャーナル出してる大沢出版の雨宮さん。」
俺は苦笑いしつつ、ママのあとに続いて「…です。よろしく。」と言った。
マイコの顔が一瞬でほころぶ。
「わ！私ＴＱＪは毎号買ってますよ！ファンなんですよー。嬉しいな。雨宮さんの文章も大好きです。歯切れがよくてかっこいいです。」
俺は、そりゃどうも、少しだけ作り笑顔を見せて言った。それ以上のサーヴィスは思いつかなかった。誉められて悪い気はしないが、だからといって、君を次号グラビアに使ってあげようなどと言えるような雑誌でもないし、立場にもない。
「アリスちゃんについて、取材しているんですか？」
マイコはにこにこしながら訊ねた。俺は、ん、まあ、とか曖昧な呟きしか返せなかった。
取材ならば、仕事だ。もっと精力的に声を集め、徹底的に調べ上げ、スクープだとぶち上げることだってできる。
だけど、それをする気にならないのはどうしてだろう。
実のところ、アリスに対する感心は相当に高まっていた。しかし、それは仕事として追求するというより、純粋な個人的な興味からだった。
なぜ、アリスなんだ。
本当に売っているのか？
マイコは、アリスのことを「ちゃん」づけで呼んでいた。明らかに好意的な証拠だろう。
「アリスについて、どう思ってるの？マイコちゃんは。」
「えー？お友達じゃないから、なんともいえないけれど……。見た印象で言えば、すっごくカワイイですよね。カワイイっていうか、綺麗。私と同じ、生まれたときは男の子だったってのが信じられないくらいきめの細かい肌をしてるし。お化粧なんかもしてないことあるみたいだし。その辺は凄くうらやましいかな。で、あんなに綺麗なのに『売ってる』ことについては、不思議じゃないと思うけれど。だって、そういう欲求って綺麗とかそうじゃないとかって関係ないですもんね。」
マイコの話は至極もっともだった。俺は頷いた。
ママは隣でそれを微笑みながら聞いている。こうしていると本当の親子に見えないこともない。事実年齢的にはそれに近いものがあるのだろう。ただ、俺には、残念ながら父と娘という構図に見えてしまったが。
店の入り口の扉が開く。少し耳障りな鐘の音が店内に響き渡った。ママと、マイコはすかさずいらっしゃいませと声をそろえた。
少しだけ振り返ってみると、煌びやかな原色の衣装に身を包んだ二人組みが入ってくるところだった。着ているものだけならば、そこらにたむろする若い女と変わらないが、挨拶をするその声で、二人とも男なのだと知れた。
たった半年来ないだけで、この店の雰囲気も変わったような気がする。俺が歳を食った証拠だろうが。
俺はママに、今日はもう帰るわ、と一言告げて店を出た。
まだまだ人通りの多い店の外の通りまで、マイコは見送りに出てきてくれた。
「雨宮さん。」
マイコは、何か悲壮な決意のような声で俺を呼んだ。
「なに？」
「さっきのアリスちゃんの話ですけれど……。私もね、アリスちゃんみたいになりたいと思うことがあるんです。ただ、ひたすらに欲求に素直に、自分の身体を使って生きていくっていう風に。ああやって、見ず知らずの人に抱かれる気分って、とてもいいんだろうなと思います。私は最初から女の子だったわけじゃないから、女の子の本当の気持ちってわからないけれど。お金持ちのおじさんたちに、私はここよってサインを出して、拾ってもらう。それって、きっととても気持ちがいいんだと思います。」
マイコは真剣な面持ちで言った。
俺は少し笑って、「そうだね。ありがとう。」と言って、立ち去った。振り返らなかったけれど、なんとなくマイコはまだそこに立ち尽くして、俺の背中を見ているような気がした。
マイコの言っていたことが１００％正しいとも思わないし、それが世論だとも思わない。
けれど、そういう気持ちが存在するということは、痛いほどわかった。
実際、なぜだか、俺は痛いと思っていた。
4
当時俺はライターの見習いで、大学に通いつつ、先輩のつてでもらったテープおこしのバイトをやっていた。
狭い六畳一間のアパート。しかし、偶然不動産屋で見つけた築の新しい建物で、ロフトもついていたが、隣がくず鉄処理場だったこともあり、格安で入ることができた。昼間うるさいのも、普段家に居ないので気にならないと思ったのだ。
バイクの専門用語が飛交う、ややこしいテープを相手に苦戦しているとき、インターフォンが鳴った。ふと時計を見ると、午前０時を既に回っている。セールスじゃないよな、誰だ？と思いつつ玄関ののぞき窓から見た。
そこには、既に誰も居ない。
いたずらか？と思いつつも、少しだけ警戒して、扉を開いた。
すると、足元に女が一人横たわっていた。
俺は驚いて、妙な声を上げてしまった。
しかし、その女の服装には見覚えがあった。
ラフな大き目の白いＹシャツに、ジーンズ。肩からかけたカバンにつけられたヘアクリップ。
「牧原先輩！？」
そう俺が声をかけると、横たわっていた女はゆっくりと顔を上げた。
「おー、雨宮！電車なくなったぞー！とめろ。」
明らかに酔っていた。俺は眉間に皺を寄せた。めんどくせえな。
「ほら、立ってくださいよ。とりあえず入って。」
先輩は、ゆっくりと立ち上がろうとしたが、足元がすぐにふらつく。仕方なく俺は肩を貸し、そのまま家の中に入れた。部屋の端にちょこんと座った。長い髪が顔にかかり、表情がわからなかった。
「水かなにか、飲みますか？」
そう言うとうなだれていた先輩はキッと顔を上げ、「酒をくれー。」とほざいた。
俺はむっとして、冷蔵庫から５００ｍｌのミネラルウォータのペットボトルを出して、キャップを開け、無理やり先輩の口に突っ込んだ。
一瞬、むせたものの、先輩は、素直に何口か飲んでから言った。
「ひどいよ雨宮―。」
「あー、俺は酷いかもしれませんけど、先輩は非常識っすよ。こんな時間に酔っ払って人の家に上がりこんで。」
と、強い口調で言うと、先輩は一瞬ぽかんとした後、頭をがくりと落とし、力なく言った。
「……ごめん、怒ってるよね。」
俺はため息をついた。そして、先輩にまだ判断する力は少し残っていたのかと安心した。
「そりゃね、俺の家は終電の終点の駅から近いですからね。ここに来るってのもわからんでもないですけど。事前に連絡して欲しいし、何より先輩、オンナでしょう？」
そういうと先輩は、笑い出した。
「何がおかしいんですか？」
「……私のこと、オンナ扱いしてくれるんだー。」
一瞬、俺はぐっと脳の一部を指で押されたような感覚に陥った。
「そりゃ、そうですよ。先輩はビアンかもしれませんけど、俺は普通の男なんですからね？」
*
牧原先輩と俺は、大学の同じ教官のゼミを受けている間柄だ。この教官は、三年と四年とのゼミを相互に行き来できるように計らっていて、合同のコンパなどもよくやっていた。最初に行ったコンパの自己紹介で、先輩はあっさりと言ったものだ。
「牧原郁子です。研究内容は、同性愛について。因みに私はレズビアンです。女の子しか愛せません。若き男子諸君、そういうことなので、諦めてください。」
ゼミナールというものが始まったばかりの緊張感の中にいた俺達に対する、最強のカウンターパンチだった。それまで、教養課程ばかりの高校の延長のような日々を送っていた俺達にとって、大学ってのはこれが「アリ」なんだ、と思わせる格好の薬だったのだ。
教授は、もう慣れたと言わんばかりに余裕をかましていた。ほかの四年生も、また始まったよくらいにしか思っていないようだ。
さすがに、三年生一同十数名はそろいもそろって絶句していた。牧原先輩はそんな俺達を見て楽しんでいるようにも見えた。
牧原先輩は、明らかに綺麗だった。髪は無造作に伸ばしたような、ワンレングス。しかし、それはつやつやと輝いている。化粧はしていないようなのに、顔のパーツはそれぞれが際立ち、白いシャツとジーンズというシンプルな服装も、好ましく思えた。
その後のコンパの席上ももっぱら牧原先輩が仕切る形になった。少しずつアルコールも回り、余裕が出てきた俺は、周囲の制止も振り切って、ストレートな質問を投げかけた。
「んで、先輩、彼女はいるんですか？」
牧原先輩は、にっこり微笑んで、「君は、誰だっけ？」と言った。
「雨宮っす。雨宮博和。二十歳、童貞っす。」
余裕が出ていたというより、単に俺は酔っていただけなのかもしれない。
俺のその答えに、牧原先輩は、ふふんとにっこり笑い、「今はいないわ。募集中、もしくは、渉猟中ってとこ？」と答えた。
「男とやってみて、ダメだったんですか？どっちも経験しないで決めたんですか？」周りの奴らは、おい、やめとけよ、とか、言っていたように思う。そこに対して先輩は軽く、あら、いいのにと呟き、俺の方をまっすぐ見た。
「男とやったことはあるわ。試しにね。けれど、私は全然いいと思わなかった。その男がよくなかっただけじゃ？という質問は却下するわ。雨宮くんもよく知ってる男だからね。」
にわかに場がざわついた。しかし、四年生と教官は、落ち着いていた。これもよくある台詞だとでも言うのだろうか？
俺が知っている男？友人どもを思い出してみたが、浮かび上がる奴はいなかった。そもそも、俺のことを牧原先輩は今日知ったばかりじゃないのか？
そうなると、一人しかいなかった。さっきから、一人でウーロン茶を舐めていた、担当教官である岩村教授だ。
酔いの勢いと、若さというものは、簡単には止まらなかった。
「岩村先生っすか？」
今思うとそれは余りに直球だったとは思う。しかし、聞いておいてよかったとも思う。
「そうだよ。」
と、牧原先輩と岩村教授は同時に言った。
岩村教授は社会学を担当する、三十代後半の男前の教授だった。当然若い女子学生にはもてていたし、男子学生からも敬愛されていた。はっきり言って日の打ち所のない「いい男」だったのだ。
俺は少しうなり、既に何杯目かカウントできなくなったビールの中ジョッキを一気にあおった。
そんな俺を見て、牧原先輩は、にっこり微笑んだ。
「ね、わかったでしょ？ですよね、先生。私、まったくぬれなかったでしょ？」
さすがに、俺はビールを噴出しそうになった。俺も大概だが、この先輩も、どこまでストレートなんだ。
岩村教授もなれたもので、「そうだったね。あれは、興味深い経験だったね。」とあっさりと答える。
俺はおかしくて堪らなくなっていた。
面白い。これからこの人たちとつき合っていけば、絶対面白くなる、そう確信したのだ。
*
酔っ払って俺の部屋にきた先輩は、少し落ち着きを取り戻したようで、「水、ありがと。」とペットボトルを俺に返した。
「仕事中だった？ごめんね。」
「あ、いや。バイトっすけど。吉村さんにもらったテープおこしっす。」
俺は素直に答えた。
「ああ、よっしーのね。じゃあ、バイクの専門用語バリバリじゃない？わかるの？」
「それがさっぱり。」
「でしょうね。」
あっさりと牧原先輩は言った。牧原先輩は、既に小さな出版社に就職が内定していた。
「先輩こそ、こんな時間にどこで飲んでいたんですか？」
と訊ねると、んー、いつものとこよ、と答えた。
「相変わらず彼女探しっすか？」
嫌味のつもりで言ったのではないが、少しそう聞こえてしまったかもしれないと、直後に反省した。しかし、先輩はまったく気にする様子も無く「それもあるけどね。」と力なく言った。
明らかにいつもの先輩ではなかった。
少し沈黙が続く。俺は先輩から受け取ったミネラルウォータのふたを開け、飲んだ。
自分でもそれを普通の行為のようになにげなくしていたことに驚いた。中学生なら間接キスだと、囃し立てるだろう。
「雨宮あ、なんでアタシ、こんな面倒な性癖になっちゃったんだろう？オンナ好きになろうと思ってなったわけじゃないのよ？どうしたってオンナしか好きになれないだけじゃないか。」
突然声のヴォリュームを上げて、先輩は言った。先輩の口から泣き言を聞いたのはこれがはじめてだった。声が確実に湿っていた。
「セックスなんか、どうだっていいのよ。ごくふつーのごく当たり前の恋愛をオンナとしたいだけじゃんかっ。」
俺は自分のことをゲイだと思っていなかったけれど、そういう趣向は理解できると思っていた。ただ、それは、「そういう趣向の人が存在すること」の理解であって、「その趣向自体」を理解していなかったのだ、とそのとき改めて感じたのだ。
俺は少しためらった挙句、先輩に近づき、ぐっと抱きしめた。
びくっとした身体の反応をダイレクトに感じた。すぐに突き放されるかなと思ったけれど、少しして力を抜くのがわかった。
「何があったのかは知りませんけれど。少しの間、我慢してください。……泣いてる女性相手に俺ができることってこのくらいしか無いんですよ。とりあえず、俺を男だと思わないでください。かと言って女だと思えるとも思いませんが。たとえば、父親とか、兄貴だと思ってくださいよ。」
先輩はやがて、うん、ありがとうと小さく呟き、そのまましばらく泣きつづけた。
それから、牧原先輩は家に帰らなかった。
正確に言えば、朝には帰ったのだが、夕方にはわずかな家財道具を持って来て、俺の部屋に住み始めたのだ。
俺には、断る理由が無かった。彼女がいたわけでもない、家賃や生活費を半分負担すると言う先輩に、むしろ感謝したいくらいだった。その当時、俺はやりたい仕事ができる職業に就くことが最大の目標であり、既にその目標を果たした人が間近にいるというのも心強かった。
噂はすぐに学校中に広がった。学校中というのは決して大げさな表現ではない。そのくらい牧原先輩は有名人だったのだ。
あの、ビアンの牧原先輩が男と同棲している。
それは暇を持て余す学生達にとって、格好のエサだったのだ。
俺も友人達に散々突っ込まれた。なんなんだよ、何があった、どうしたんだ。
俺はいちいちに答えるのが面倒だった。牧原先輩にしても同じだったようで、取材に来た学内新聞の記者に対して言い放った。
「レズビアンなのは、変わらないわ。雨宮くんと同棲している？それは事実だけれど、正確ではないわ。訂正してね。私は、雨宮くんと同居しているの。」
5
ぼんやりとらしくもない回想をしながら歩いていたせいか、正面数十メートル先で起こっているざわめきに気づくのが遅れた。
悲鳴に近い男の声と、罵倒する女の声だった。
喧嘩か、と俺は何気なく通り過ぎようとした。しかし、人だかりの脇をすり抜けるとき、ふと見ると、青いスカートの裾が見えた。
まさか？と、俺は思い、無理やり人を掻き分け、最前に出た。
アリスだった。
アリスは、頬を紅潮させ、男に対して睨みつけていた。男は長髪で、金のかかってそうなスーツを着ていた。
口論自体は既に収まっていた。だから、いったい何が原因で、こうなったのかはわからなかった。
しかし、男は明らかにたじろいでいたし、アリスは両足を開き、優位な自分のポジションを確保していた。
「早く、消えてくれないかな。ぼくの前に二度と姿を見せないでね。」
アリスは、言った。俺は、これがアリスの声なんだと妙な感心の仕方をしていた。それに、一人称がぼくだというのも、初めて知った事実だ。
男は舌打ちだけを周辺に響かせ、肩を落として去っていった。
俺は、いきさつが知りたかったので、そばにいた若い女二人組みに、尋ねた。
「うーん、私も最初から見ていたわけじゃないから、わからないけれど。さっきの男が、ここに立っていたアリスちゃんに、どうせ売るならウチでやらないか、みたいなことを言ったみたい。」
なるほど。これまた、よくある話だな、と俺は思った。
しかし、このチャンスを逃すわけにはいかない、と、俺はアリスに近寄ろうとした。
するとアリスは、俺に向かって言った。
「あんた、マスコミの人でしょ？知ってるよ。ぼくのことを詮索しないで欲しいんだよね。」
俺をマスコミの人間だと決め付ける要素はいったいどこにあったのだろう？たった今そこにいた女に尋ねた行為か？しかし、図星だったので、俺は一瞬たじろいだ。
アリスはその瞬間を見逃さなかった。じゃね、と一言残し、すっと人ごみを掻き分け、居なくなってしまったのだ。
あ、おい、待って、と間抜けな声をかけるが、あとの祭り。既にアリスは、スキップするかのような軽い足取りで、どこかに消えてしまった。
俺は惜しいとか、そういう感情の前に不思議だった。今、俺は本当にアリスを目前にしていたのか？俺の耳に残っている一連のアリスの声は本物だったのか？
三々五々、集まっていた野次馬も消えていく。俺はその中でたった一人取り残された気分だった。
アリスの声は想像よりも、女性らしかった。先入観が無ければ明らかに女性だと思っていただろう。先に知識として知っていたからこそ、確かに男が女の声を出しているんだなとかろうじてわかるレヴェルだった。
それに、あの顔。俺の皮膚を構成している物質と同じモノで出来ているとは思えないくらい、無機質で整っていた。セルロイドや、プラスティックを思わせるような質感が、逆に艶めかしかった。
まぶたの裏に残った残像を追いかける。前に取材で聞いたような、手首の包帯は無かった。金髪のロングヘアは、かつらなのか、自分の毛なのかの判断もつかなかった。
衣装はどこで入手したんだろう。上品な色合いで、かつ縫製もしっかりしているように思える。手作りだとしたら、相当な腕前だ。
まあ、いい、と俺は思った。近いうちにまた逢える。
既に俺は雑誌の記事にすることなど、どうでもよくなっていた。
ただ、アリスに逢いたい。可能ならば、アリスと二人きりになり、あのアリスの衣装を剥ぎ取ってみたい、と思っていた。
6
牧原先輩が俺の家に住み始めて、４ヶ月ほどたった頃だった。
バイトに明け暮れる日々の隙間に、ぽっかりと二人が休みになる日がでた。
大学はすでに夏休みに入っており、ほとんど毎日のように二人ともアルバイトをいれていたのだが、たまたまローテーションの関係からか、二人の休みがかち合ったのだ。
一緒に住んでいるとはいえ、俺と先輩は恋人同士ではない。一緒に遊びに行くということも無く、ゼミのコンパの帰りが一緒である、というくらいだった。
なんとなく、俺は当惑した。もちろん、こういうケースは想定できてしかるべきだったのに、なぜか思い当たっていなかったのだ。
「先輩は、どこか行く予定とか無いんですか？」
と、俺が訊ねると、先輩は読んでいた雑誌から目を上げ、
「どっこも。友達はみんな帰省しちゃったよ。つまんない。」
などと口をとがらせた。
「雨宮は？」
そう訊ねられても、俺としても事情は同じだ。なんもないっすよと答える。
すると先輩は、ふうんと意味ありげな笑みを浮かべて、こう続けた。
「じゃあさ、雨宮。セックスしようか？」
*
それまでの四ヶ月間、当たり前のように、そういった関係は無かった。俺は先輩がビアンだということは知っていたし、そういった性癖は否定すべきではないと頭で理解していたというのもあるだろう。
だが、実際に先輩に対して性的な欲望が無かったかと言えば、これが微妙なのだ。
客観的にみても先輩は女性として大変に魅力的である。絶世の美女とまでは言わないが、綺麗だと思うし、なにより先輩はどういう仕草をすれば肉感的であるかを知り尽くしていた。
俺は先輩のことを思いながら、オナニーをしたことがある。その四ヶ月間の間に数限りなくと言ってもいい。
俺は自問する。
先輩とセックスを本当にしたいと思っているのか？
先輩の身体を抱きたいと思っているのか？
先輩を自分の自由に操ってみたいと思っているのか？
先輩が自分を受け入れてくれると思えるのか？
最終的な俺の判断は、ＧＯだった。たとえ先輩がレズビアンだと知っていても、先輩は拒否しないような気がしていた。しかし、それでも俺は先輩を抱かなかった。
では、まるで修行僧のごとくストイックにその欲望を押さえつけていたのか？と問われると、そうではないのだ。
俺にはセックスの経験が無かった。今時ならば、二十歳過ぎてそんなことを言っていたら、中学生に笑われる。だが、仕方がない事実だ。
原因はそこにあったのだろうか？どう説明したらいいのだろう。
自分の性的な欲望の対象として、先輩の身体を思い浮かべることは容易にできるのだが、いざ本物を目の前にしてしまうと萎縮する。そう表現するのが一番近いのだろうか。
欲望の処理をするために、他人の身体を使うということが、身体的に理解できていなかったのだ。
つまり目の前に存在する先輩の肉体は、グラビアのアイドルと同じ。リアルをリアルとしてとらえることができないでいたのだ。
生活上、二人で暮らすことの約束ごとは、自然とできていった。二部屋あるわけではない、ロフトの上がかろうじて「一人分のスペース」を確保しているだけで、あとはすべて共同だ。
なのに、トラブルはなにも起きなかった。恋人同士だったとしても、些細なことで喧嘩くらいするだろう。それさえも無かった。
先輩は忙しく走り回り、あまり家に帰ってこないということもあったが、おそらくお互いに尊重しあうくらいには、大人で、ここから先に入っちゃダメと言われれば自分を押さえてでも素直に従うくらい、子どもだったということだろう。
*
俺は、充分に間抜けな時間をおいてから、「はあ？」と言った。
先輩は俺に対して、あまりに嫣然とした笑みを向けていた。誘われている。言葉でだけでなく、明らかにセックスの対象として、身体ごと誘われていると感じた。
「先輩は、ビアンだったんじゃないんですか？」
ようやく俺がそれを言うと、先輩はあっさりと言った。
「そうよ。だけどね。雨宮とならセックスできると思ったのよ。雨宮を男っぽく感じないという意味では無いよ。雨宮は男。だけど、今、私は雨宮とセックスをしたいと思ったの。どう？」
俺は混乱していた。完全に自分の内面がまっぷたつに割れていた。
どうやって断ろうと思う自分と、じゃあ早速やってやろうと思う自分と。
「ねえ、先輩、そんな風に簡単に俺を誘っちゃっていいんですか？これからも一つ屋根の下一緒に暮らすんですよ？気まずくなったりしませんか？」
「私は平気よ。むしろ、一つ屋根の下というんだったら、セックスの一つや二つない方が不自然。恋人同士じゃなくたって、人間の男と女なんだったら当たり前でしょう？」
先輩から、「人間の男と女」なんてフレーズがでてくるのは、意外だった。普段から、男女の組み合わせだけをカップルだと思っている「常識人」を見ると跳び蹴り食らわしたくなるわねなんて言うくせに。
釈然としなかった。だけど、断る理由を見つけることもできなかった。
俺は、手をさしのべる先輩の両腕の中に、ゆっくりと沈んでいった。
全身が、先輩の身体を喜んでいた。暖かく柔らかな肉体にずぶずぶと入り込んでいきそうだった。脳の頂点まで快楽が高まっていると感じていた。
しかし、俺の性器は、まったく反応を示していなかった。
確かに俺には性的な快楽があった。先輩が完全に素肌を晒したとき、俺はしまった、先に出してしまったとまで焦った。それでも、実際はなにも放出しておらず、それどころか濃い茂みの中に埋もれそうな俺の性器は沈黙を保ったままであった。
なにが起こっているのか理解できなかった。壊れそうなほどの快楽と、気持ちの高鳴りを全身で感じているというのに、俺の身体はセックスに対して準備を整えてはくれなかったのだ。
俺は先輩にわびた。恥をかかせたと思ったのだ。自分の身体に起こってしまった奇妙な現象についても事細かにいいわけがましく説明した。
しかし、先輩は何事も無かったかのように、服を着た。
「そうなんだ。わかった。気にすることはないよ。でも、気持ちよかったんだよね？じゃあ、今度またしようか。」と笑った。
そして、それからも先輩の俺に対する態度は何一つ変わらなかった。
ただ、「今度またしようか。」という約束は果たされなかった。
7
アリスに逢えなかった翌日、俺は編集部でぼんやりとしていた。
締め切りの迫っている入稿もあったのだけれど、デスクで立ち上げられているノートパソコンのワープロはまったくの白紙だった。
隣のデスクでは、松沢が端末に向かって一心不乱に仕事をしていた。まじめな娘だ。高校を卒業してすぐにこの編集部にやってきたのだが、覚えも早く、重宝がられていた。
背後に迫る気配に気づき、イスをきしませ、仰向けの状態で、それが誰かを確認しようとした瞬間、顎を掴まれた。
「いててててててて。」
「あーまーみーやーくーん。ちょおーっと私のデスクまで来てねー。」
編集長だった。ちょうどいい、俺からも編集長に聞きたいことがあったのだ。
きっちりと整理されたデスクの脇にパイプ製の椅子を寄せ、編集長の脇に座った。
いつものように、編集長はすっきりとしたデザインのパンツスーツを着ていた。今日は珍しくメガネをかけている。
「雨宮くん、アリスくんの具合はいかが？」
「昨日見かけましたよ。けど、マスコミでしょ？と言い当てられて逃げられました。」
俺は正直に答えた。編集長相手に下手な小細工をしても無駄だとわかっていたからだ。
「あ、そう。まあ、仕方ないかな。」
「で、編集長。聞きたいことがあるんですけど。」
「なに？」
「何で俺をアリス担当にしたんですか？」
すると、編集長は明らかに驚いた表情をした。
「あれー。てっきり気づいていたと思っていたんだけどなー。私の買いかぶりだったのかなあ。」
「？」
俺はぽかんとした表情をしていたに違いない。何に気づいていたというのか。
「今、どこまで調べはついたの？」
編集長はため息を軽くついてから俺に尋ねた。俺は今までの経緯を簡単に説明した。
「そう。そこまでわかっていたら、もうわかっているかと思ったのに。案外そういうものなのかな？」
俺は歯がゆくなってきた。いったい編集長は何に気づいているんだ。
「アリスくんが本当に売っていると雨宮くんは思っているの？」
「……考えることは考えましたけどね。ソードテイルの子が言ったように、強い欲望があって、それに素直に行動している。つまり俺は売ってると思っていましたよ。」
そう、俺が答えると、あっさりと編集長は言った。
「欲望がある、ということと、ああいうスタイルで街角に立って誰でもいいから声をかけてくれる人を待つという行為は果たしてイコール？他にもいくらだって方法はあるのに、どうしてあんな危険な方法を採ったの？」
「それは、噂にもあったとおり、壊れちゃったから……ということが答えになっているんじゃないんですか？」
「違うよ。」
すぐに編集長は否定する。
「私は違うと思っている。だとしたらアリスくんの目的は何なのか。私はね、何か特定の人へのメッセージじゃないかと思ってるの。それもね、あまりにあふれる程の愛情と、その裏返し。私怨と言ってもいいかもしれないけれど。はっきり言ったら、その対象は私自身、いやちょっと広く考えてマスコミおよび、うちの編集部全体に対する何かじゃないのかな。個人的なものよ。ものすごく個人的な、ね。」
どういうことなんだ？編集長は何をどこまで知っているのか。
疑問符だらけになった俺に追い討ちをかけるように編集長は言った。
「アリスくんに関しては第三者である雨宮くんが最適だと思ったのよ。共通のね、何かを感じるの。アリスくんは今、圧倒的に孤独だわ。それを救う……とまではいかないけれど、何かしら手を差し伸べることができるのは、似ている、雨宮くんだと思ったのよ。」
よく、わからない。どこが似ているというのか。その、圧倒的な孤独という面なのか。
しかし俺には打ち込める仕事があるし、恋人はいないが迎えてくれる友人だっていなくもない。
待てよ。じゃあ、アリスには？いるのだろうか。わからない。普通に友人と談笑しているアリスの姿はどうしても俺には思い浮かべることができなかった。
そもそもなぜ「彼」は「アリス」になろうとしたのか。
俺はその疑問をそのまま編集長に伝えた。
「それはわからない。物語論などを駆使して、何かのメタファだって言い切ることは簡単よ。だけど、それには意味がないと思う。純粋にアリスくんの口から聞くのが一番じゃない？」
もっともだった。あまりにもっともであり、そこについても編集長が何かしら知っているのだったら、取材などしなくても記事は書けてしまう。
雨宮くん、と優しい声で編集長は言った。
同じ職場で働くようになり、編集長と編集部員という立場になってから、初めて聞く声だった。そう、それはあの日、俺を誘ったときの一人の女の声だった。
「雨宮くんを正直『巻き込んでしまった』と思ってる。ある意味勘が働いていることも認めるわ。けれど、これは雑誌編集長の勘というよりは、一度雨宮くんとセックスをしようとした人間の勘だと思って欲しいの。」
俺には返す言葉がなかった。
編集長に対して何をどこまで知っているのかと問いただし、もっと大きなヒントを得ることだってできるはずなのだが、俺にはそれをする気になれなかった。
はっきり言ってしまえばこの仕事は公私混同だ。だけど編集長はこれをやりたかったのだ。一人の圧倒的な孤独を抱えてしまった一人の少女……「アリス」を救ってあげようと思ったのだ。もしかしたらその原因さえも編集長にあるのかもしれない。
俺はそれもいいだろうと思った。不特定多数に対して投げかけるだけが仕事じゃない。俺が動くことによって何かが変わるのならば、それもいいじゃないか。
8
俺は編集長のデスクから帰ってきたあと、隣の席の松沢を連れて外にでた。昼飯食べてないなら行こうぜ。おごってやると言ったら、松沢はただでさえ丸い目をいっそう開いた。
「あ、雨宮さんがそんな風に誘うなんて。明日東京地方は、槍が降りますよっ。」
一瞬むっとした俺は、行かないならいいぞと言って外に向かう扉に歩き始めた。すると、松沢はあわてふためいてついてきた。
８月のオフィス街はまだ暑かった。外に出てまだ１分も歩いていないのに、Ｙシャツの背中が汗で濡れて気持ちが悪い。松沢はすっきりとしたワンピースを着ていた。暑い暑いを連発しているが、見た目にも涼しげだ。
昼飯時を過ぎていたので、空いていた定食屋に入る。
二度と無いかもしれないから遠慮しませんよと言った松沢は、それでも冷やし中華だけを頼んだ。俺は今ひとつ食欲が無かったが、焼き魚定食を注文する。
「ごちそうさまですー。でもなんか、下心ありそうで、怖いなー。」
松沢は無邪気に言った。下心といっても、下半身のそれでないことはお互い重々承知である。
実際、俺には松沢に対して訊きたいことがあった。
「あるよ。下心。」
と、言った瞬間。松沢の顔はみるみる曇った。ふえーといった情けない声を出す。
俺はその過敏な反応に、少し慌てて付け足す。「ちょっと訊きたいことがあるだけだよっ。」
「……なんでしょー？」
そう言いながら松沢は、運ばれてきた冷やし中華に、からしをぺたぺた塗りたくっている。見ているこっちが辛くなる。
「俺が今、何の仕事担当してるか知ってるよな？」
「ええ、もちろん。アリスちゃんでしょ？」
「そう。で、松沢は、なんか知ってるんだろ？アリスについて。」
すると、松沢は一瞬箸を止めた。
俺は半々の賭で言った。松沢の反応を見ると、それは当たっていたようだ。
「……鋭いですねー。雨宮さん。見直しちゃいました。」
「俺が訊ねなければ黙っているつもりだったか？」
「そんなことはありませんよー。機会を見て私が知ってる情報は提供するつもりでしたもん。」
しれっと言ってくれる。しかし、ここで怒っても仕方あるまい。
「じゃあ、ついでに、もう一つ訊いていいか？」
「どうぞ。」
松沢は軽く言った。
「……編集長とは、いつからだ？」
わずかな沈黙があった。松沢は答えようか答えまいか逡巡しているように見えた。
「……ばればれなんですね。えーと、……一年半かな。」
「そうか。答えてくれてありがとう。」
俺は素直に言った。
「私としては別に隠しておくつもりも無かったんですけれど。郁子さんが、聞かれない限り言う必要は無いって言っていたものですから。」
「そりゃそうだろうな。別に俺だってプライバシィに立ち入るつもりはないよ。ただ、そうなのかなと思っただけでさ。」
「雨宮さんて、大人ですねー。郁子さんの言った通りだ。」
本気で感心しているような口振りだった。俺は苦笑しつつ言った。
「じゃあ、本題。松沢と、アリスの関係は？」
「アリスは、兄です。」
松沢は俺の方を見ず、冷やし中華に集中しながら言った。
俺は絶句した。頭の中が混乱している。そこまでの答えは期待していなかったのだ。
整理がつかないまま、ただ思いつく質問だけを浴びせかけた。
「松沢、今着ているそれは自作か？」
「そうですよ。私服飾科出身ですからね。」
「一人暮らしだっけ？」
「違います。家族……といっても、母とだけですが一緒です。」
「父親は？」
「私が小学生の頃に離婚しました。兄を連れて、父は出ていきました。」
「じゃあ……、」
「ストップ。」
俺の開きかけた口に、松沢は手のひらを向けた。
「雨宮さん、お魚冷めちゃいますよ？」
「いいんだよ。食欲無いんだ。」
「もったいない！あと、質問が多すぎます。私、食後のデザートが欲しいんですけれど、雨宮さん、コーヒーいかがですか？いいお店知ってるんですよ。」
俺は、どうしたって、女に手玉にとられる性質らしい。
9
定食屋からものの１分ほどの道を隔てた場所に、その洒落たケーキショップはあった。
若い女性で込み合っていたがすぐに奥のテーブルに案内された。松沢はよくここに来ているらしく、店員の女性とも顔見知りだった。好奇の目で俺を見ないところをみると、松沢がビアンだということを知っているか、接客という仕事に関してプライドを持っているかのどちらかだろう。
アイスコーヒーのガム抜きを注文する。松沢は舌をかみそうな名前のケーキを二つとミルクティを注文した。
「ここのケーキ、本格的に絶品ですよ。お一ついかがですか？」
「食欲無いって言っただろ？」
俺が素っ気なく答えると、松沢は少し残念そうな顔をした。
「一つ聞くが……。ここをおごれば、松沢の身の上話ってヤツは聞かせてもらえるのか？」
「条件があります。」
「まだ何かあるのか？」
俺は少しうんざりして言った。
「記事にすることが前提なのだとしたら、私のことは伏せてください。」
俺は安心した。「約束するよ。」
「じゃあすべてお話します。いきさつも、雨宮さんに話さなかった理由も、郁子さんのことも。」
*
結局、すべての話を聞き終わるまでに、俺はコーヒーを２杯おかわりし、松沢はケーキをもう一つ追加した。
松沢は話し終わった安堵からか、ほっと大きく息をつき、私にもタバコ一本いただけますか？と言った。
俺は無言で、タバコの箱を指で弾いて、松沢の方に寄せた。
松沢は口にくわえ、俺が差し出したライタの火に首を突きだし、火がついたことを確認してから大きく吸い込んだ。まだ、タバコを吸うことに慣れていない様子だった。
半開きになった口の中に、八重歯が見えた。
松沢から聞いた話は単なるアリスの来歴だった。
両親が離婚し、それに伴い二人は離れ離れにならざるを得なかった。それ以前にアリスと松沢の間には、兄妹を超えた関係があった。どちらかが求めたというのではない。お互いがお互いの足りない部分を補完するかのように求め合い、惹かれあったせいなんだ、と。
妹の目から見ても、アリスは綺麗だった。服飾科に通っていた彼女は、「アリスをアリスにさせてみたくて」衣装を作った。課題として提出した洋服よりもうまくできたんだけど、あまりに惜しくて提出できなかったんですよ、と松沢は笑っていた。
アリスは、妹が作ったそのアリスをまとい、アリスになった。
どうしてアリスなの？と尋ねたところ帰ってきた答えは簡単だった。
「だって、アリスはアリスじゃない。」
もともとアリスには、綺麗になりたいという願望が強かった。子どもの頃からそうですよ、二人して綺麗になろうねってよく言っていました、と松沢は言った。
離れ離れになるときに、こんな話をした。
「ねえ、アリスは、恋人がほしいと思う？」
「今は彩香がいるから、そうは思わないよ。」
「いなくなったら、どうするの？」
「……いなくなっちゃうの？」
「今の両親の様子から行くと離れ離れになるわ。そうしたらどうするの？」
「考えられないよ。」
「考えて。私は考えているわ。いつまでもこんな風に二人きりでいるわけにはいかないんだよ。私は恋人がほしいよ。」
「ぼくは、どうなんだろう。」
「私はきっと恋人を作る。アリスと比べても遜色のないような。だからお願い。アリスも恋人を作ってほしいの。そして、いつの日か再会して、恋人を自慢しあおうよ。」
「……そうだね。」
俺は混乱していた。
しばらく沈黙が続いた。
「……あのさ、松沢。」
「なんでしょう？」
「俺は、アリスとセックスするぞ？それもいいのか？」
「雨宮さんでしたら、問題ありません。私、密かに憧れていたんですよ。といっても、私が好きなのは郁子さんですけれど。そうだな、例えて言うならば、好きな俳優さんて感じかな。身近じゃないんだけれど、追いかけてすべてを知りたいと思うような。」
「……光栄だな。」
そういうと、松沢はにっこりと笑った。
確かにアリスと血縁があるのだと思わせるに充分なほど、魅力的な笑顔だった。
「それに、さっきも言いましたが、もうお互い大人です。誰とセックスをしようが私には関係の無いことです。むしろ……。」
「むしろ？」
「雨宮さんと正式にカップルになって、幸せになって欲しいと思っています。冗談や、冷やかしではなく。」
「……どうなるかね。」
俺はようやくそう答え、伝票を掴み、立ち上がった。
そして、どこかで編集部とアリスという４人組がそれぞれを紹介する奇妙な図式を思って、苦笑した。
10
その晩、俺はこんな夢をみた。
新宿のど真ん中に巨大な穴が開いている。みんなが覗き込んでいたので、俺もその輪に加わって、覗き込んでみた。
奥はとても深く、底などはっきり見えない。
すると、後ろから誰かが俺のことを押した。
バランスを崩した俺は足から穴の底に向かって落ちていった。
真っ暗だと思ったのはほんの一瞬で、すぐに明るい風景が俺の回りを流れ始めた。しかし、それもまるで絵に描いたような平坦な風景で、歪んだり、色が欠け落ちたりしていた。
着地するかと思った瞬間、俺の身体は既に自由落下をやめていて、芝生の上に座り込んでいた。夢の中でさえ、俺はぼんやりとしていて、何がどう繋がっているのかはっきり自覚できなかった。
あめみやっ、と呼ぶ声が背後からした。振り返ろうとする間もなく、その声の主が、スキップするがごとく視界にふっと現れた。
アリスだった。
なぜかアリスはバニーガールのような、うさぎの耳をつけていた。「なんだそれは。」と訊ねると、「似合うでしょ？」とアリスは答えた。
アリスは俺の手をとった。ひんやりとした感覚が手に伝わる。アリスは、早く逃げないと女王様に捕まるよ、と言った。
俺は女王様が誰なのか、すぐに想像がついて苦笑いした。大丈夫だ、あの女王は俺の知り合いだ。と、答えた。
するとアリスの顔がみるみるうちに曇った。
「ぼく、あいつ、嫌いだよ。」
俺は、その苦々しげなアリスの顔に欲情した。
「いいから、逃げようよ。お姉ちゃんの膝枕のとこへさ。」
日本語が不明瞭だぞ？という間もなく、俺はアリスにぐんと手を引かれ、慌ててついていった。
ふと、気づくと、俺は編集部の自分のデスクにいた。夢なんてこんなものだ。俺の手を引いていたはずのアリスはいなくなっていたが、代わりに隣の席に、松沢がいた。
「女王様はお出かけですよ。」
松沢は俺にそう言った。「いいんだ別に。逢いたかったわけじゃねえ。」と答えた。
すると松沢は「知ってるんですよ。雨宮さん。女王様の身体見たでしょう？」と言って、八重歯を見せてにやりと笑った。
俺は夢の中だと何度目かの確認をしてから、それでも参ったなと思っていた。
疲れてるんだろうなあ、とびっしょりとかいた寝汗を拭きながら、洗面所でコップ一杯の水を飲んだ。
けど、こういうことってあるんだなあと思った。
無精ひげの生えた自分の顔を暗い鏡の中に覗き込みながら、一人で呟いた。
夢のお陰で、すべてが繋がったぜ、と。
11
一度編集部に立ち寄ってから、急いで新宿に出た。
早くしないとまずい。アリスは、届けるべきメッセージの終盤にさしかかっている。
俺はしかし、アリスの居場所にもう、予測はついていた。
アリスはいた。
新宿公園のベンチでぼうっと空を見上げていた。
遠巻きにアリスのことを見ている人たちはいたが、アリスは一人だった。
俺の姿がアリスの視界に入ったらしい、アリスは一瞬身体をびくっとさせて、逃げようと身構えた。
そこに俺は間髪入れずに声をかけた。
「解けたぜ。メッセージ。それに、俺はＴＱＪの人間だ。話したいこと、あるんだろう？」
アリスは、俺の声を聞いて、唇をかみしめた。
大丈夫。どうやら逃げるつもりはないらしい。
「……メッセージが解けたって、なにさ。」
アリスは気丈に言った。ちょっと声が震えている気がした。
俺は、ようやくアリスのすぐ近くに寄り、隣いいか？と訊ねた。
無言だったので、了承とみなし、座り込んだ。
「座標とは、考えたな。」
アリスは明らかに動揺した。
「……ふうん。よく気づいたね。」
俺は苦笑しつつ、ま、そうだなと答える。
「一応、俺の考えが正しいかどうか、聞かせてくれ。あのスケッチブックに書かれたメッセージ。それ自体に意味は無かった。問題は、文字数だったんだよな？『TO』なら２，『SHOW』なら４，『HEAVEN』なら６だ。」
アリスは無言で聞いている。俺は畳みかけた。
「新宿全体を最大の文字数だった６×６に切り分ける。そして、アリスは自分が立っている位置をスケッチブックに書かれた文字数で示した。『SHOW
ME』なら、『４−２』だ。『TO HEAVEN』なら『２−６』だな。その位置を上空から眺めたとすると、その軌跡が文字を描くってわけだ。」
俺はそこで区切った。
「……『REVANGE』とな。」
アリスは、沈黙していた。軽く下唇をかんでいる。
横顔も恐ろしいほどキレイだった。少しだけ見える八重歯が、松沢と同じだなと俺は思った。
「さて、アリス。ここから先も、こんな寒い公園で話していいのか？俺にも聞きたいことがあるし、教えて欲しいことだってある。俺は、アリスが一番嫌いな二人に近いところにいるんだけどな。」
すると、アリスは違う！と叫んだ。
「……別に嫌いなわけじゃない。」
俺は、煙草を口から落としそうになった。単に大声に驚いただけだが。
少しの沈黙を挟み、肩をすくめる。
「わかった。」と言うと、アリスは、小さな声で「いいよ、ホテルに行こう」と言った。
12
公園から徒歩で数分のところにあるホテルに俺とアリスは入った。
俺は公園に来る前に編集部に寄り、今までの目撃情報をすべて表形式にし、マトリクスを作り、アリスのメッセージを読み明かした。そのときようやくアリスは街に立って「売っている」のではないと確信した。
それをアリスに告げたというのに、アリスは俺をホテルに誘った。
単にゆっくり話をするためなのか？それとも。
アリスは部屋につくなり「シャワー浴びないの？」と訊ねた。俺はいいよ、やるつもりないんだからなと答えた。
するとアリスは、ふっと下唇で笑い、ぼくを救ってくれるんじゃないの？と言った。
アリスはシャワーを浴びる様子もなく、ベッドに座った。俺に目を合わせずにアリスは言う。
「……もう、どこまで知ってるの？雨宮さんはさ。」
俺も部屋の一点を見つめて言った。
「さあ。おおかたの推理はついてる。名探偵としては、あとは容疑者を集めて、さて、みなさん、と言い始めたいところだが。」
アリスは少しも笑わなかった。
「ぼくが聞いてあげるよ。知ってることを話してみて。」
「……。」
俺はタバコに火をつけた。もったいぶったわけじゃない。ちょっと整理したかっただけだ。もっとも、すべてを自分で導きだしたわけでもない。ほとんどが松沢から聞いた情報をまとめただけだが。
「まず、アリスという存在そのものに興味を引かれた。なんでアリスなんだ。オトコだという噂は本当か。売ってるという噂は本当か。常に持っているサインに意味はあるのか。立っている場所に意味はあるのか。……アリスの目的はなんなのか。」
アリスは黙っていた。俺は続けた。
「まず、サインと場所については、さっき公園で言ったとおりだ。そしてそのメッセージが『REVANGE』だった以上、目的は……、悪い虫にさらわれた妹の奪還か？」
「彩香に聞いたの？」
アリスはそう言った。彩香。
松沢彩香。それが編集部の彼女であり、アリスの妹の名前だ。
「松沢はウチの編集部の人間だ。そして、その松沢とつき合っているのは編集長だ。知らないハズがない。というより、アリスの目的は街の小さな事件を追いかけるウチの編集部が飛びつくようなネタを振ることだったんじゃないのか？そして、編集部をかき回すことが目的だったんじゃないのか？」
「半分正解。」
アリスは肩の力を抜き、虚空にふうっと息を吐き出した。観念したとでも言うように。
「アリスは妹の彩香を愛していた。その彩香と両親の離婚によって分かれざるを得なくなった。両親に対する恨みもあっただろうが、それ以上に、分かれてすぐに『女性』とつきあい始めた彩香への不信感もあったのかな。そこで、アリスは復讐を誓ったと。実際メッセージだけでこれから何をしようとしていたのかはわからないけどな。」
「雨宮さん、物知りだね。」
「そういうアリスも、俺の名前が雨宮だと、どこで知った？」
「……。」
「イマサラ化かし合いはよそう。俺は知っていることは全部話す。アリスは、そうだな。違うところだけでもいいから、NOと言ってくれ。」
「嫌だ。」
即答したアリスに俺は少しむっとした。強い調子で言った。
「なぜ。」
するとアリスは初めて俺の顔をじっと見た。
「ぼくも、全部話すよ。」
*
「まず、なぜアリスなのか。その前になぜ女装なのか。それはね、ぼくは綺麗なものになりたかっただけなんだよ。誰が見ても綺麗なもの。昔からそういったキモチはあった。だから、普通に女装して、夜の街で遊んでいたこともある。だけど、彩香が女性とつき合っていると知ってからその気持ちは加速した。彩香が昔作ってくれたアリスの服をぼくは身につけた。身も心も、アリスになったような気がした。綺麗な、ね。」
「別に彩香が誰とつき合おうが気にしない……つもりだった。だけど、それが女性だと聞いて悔しくなった。同性愛とかそういうものを否定するつもりはないけれど。ぼくだって『綺麗』になったじゃないか。それでもぼくじゃだめなのか？という気持ちはあった。それがTQJの編集長だと知って、ぼくはその雑誌に取り上げられることを考えた。それが雨宮さんも解読したあのメッセージだった。そういう雑誌だったでしょ？事実、それについて読みは当たっていたとは思う。だけど。」
「全然ぼくは気持ちよくなれなかった。だから、売っていたという話も半分は本当。敢えて、こう言ってはなんだけれど、綺麗じゃない男の人に抱かれるのは、悪くなかった。一度それで痛い思いをしたけれどね。聞いた？やばい男だったんだよね。ぼくと心中しようとした。ぼくは手首を切られただけですぐに逃げ出せた。そのあとその男がどうしたかは知らない。詮索もしなかった。それが夜の街のルールだと思って。」
「今でもぼくは彩香のことが好き。だけど、彩香はもうぼくのことなど視野に無い。それもわかってる。TQJの編集長……。」
「牧原だ。牧原郁子。」
「そう、その郁子さんにべったりでね。ぼくは一度だけ二人のデート現場を見たことがある。編集部近くのケーキ屋だったよ。あそこ、近くにホテルあるでしょう？二人で入っていったよ。郁子さんはね、入る直前に振り返ってぼくを見て、ウィンクしたんだ。」
「尾行もばればれ。まったくあの人には叶わない。だから、彩香が好きになるのもうなずけた。それが、ええと、つい２週間くらい前だったかな。それからぼくは、実際のところメッセージを出し続ける理由を失った。なんでこんな意味のないことをやっているのだろう。他のマスコミは色々とつけ回してくるようになったけれど、TQJはいつになってもやってこないし、来たところでもう、いいやという気になっていた。」
「そのときに、雨宮さん、あなたを見かけたんだよ。」
「……路上で絡まれていたときか？」
「そう。もう既にそのときはあなたの名前もTQJの人だということも知っていた。だけど、ぼくはその場から逃げ出した。今頃遅いよ、と思ったのも事実だったけれど、なぜか、どうしてか解らなかったけれど、あなたに追いかけて欲しくなった。なんでだろうね。それは今こうして話をしていても解らない。なんというか、マスコミの人間だからというより、あ、この人は自分の意志で動いているってことが肌で解ったからかもしれないし、他の理由かもしれない。」
「なあ、アリス。俺はね、セックスが出来ない身体なんだよ。」
「？どういうこと？」
「勃たないんだよ。」
「なんだ、そんなこと。勃たないと、セックスが出来ないの？射精しないとセックスは終わらない？」
「……いや、そんなことは無いが。」
「でしょ？ぼくと同じ。ぼくだって、勃起したりしないよ。でも、セックスは好き。肌が触れ合ってるだけでも楽しいじゃない？」
俺は大きく溜め息をついた。結局何もかも、手玉に取られていただけか。
ま、これが俺の生き方ってやつなのかね、とちょっとふてくされて、ベッドに寝ころんだ。
アリスはそんな俺をちょっと不思議そうな顔で見ていた。口元から見える八重歯が妙に魅力的に見えた。綺麗だ。本当に綺麗だ。
「ぼくのね、この八重歯。彩香と同じでしょ？お互いの悩みはね、フェラチオするとき邪魔だってことなんだよね。」
アリスはそういって笑った。俺もつられて笑った。そんなことを松沢も言っていた。
「つまり、相手を斬りつける「刃」ってわけだ。」
「そうしたくないのに、そうせざるを得ない。諸刃のね。」
>俺はアリスの服を脱がせた。
真っ白な肌だった。
ベッドに抱き合って寝転がった。
唇を合わせたときに、舌でアリスの八重歯を探った。
ちくっとした痛みが舌に響いた。
結局お互い性器を見ることも触れることもなく、二人でゆっくりと深い眠りに落ちていった。