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SLEEPING BEAUTY 1992
………眠り姫が待っていたのは王子様ではありませんでした。
素肌を舐める柔らかい風が気持ちよくて、上機嫌だったぼく。
こほんと一つ咳をしたら、掌が紅に染まった。
その時、気になったのは、自分の身体の異常じゃなくて、身に着けた純白のドレスに咲いてしまった血液の薔薇。
久しぶりに、バスケットにサンドイッチ詰めて、水筒に麦茶も詰めて、この丘に登ったのに。
高い高い空に向かって、緑が敷き詰められた大地に仰向けになった。
大丈夫。もう咳は出ないみたい。
そうわかったら安心して、バスケットから、たばこを出した。
火をつけ、大きく吸い込む。
煙は脳味噌と頭蓋骨の隙間に入り込み、身体は地面にいるまま、浮かび上がる。
このトリップ感がたまらなくて、お肌に悪いと知りつつも、やめられない。
お肌が荒れちゃったところで、別に大して困らないけれど、この白いドレスが似合わなくなったら、ちょっと考える。
これは、おねえちゃんのために、ぼくが買ってきたんだ。少し恥ずかしかったけれど、大好きなおねえちゃんのためだもの。
だけど、今はかわりにぼくが着てる。ね、ぼくにもぴったりでしょ？
髪もあごのラインまでのびた。思っていたよりさらさらヘアになったから、もう少しのばそうかな。そうすれば、ピンクのリボンも今よりずっと映えそうだし。
胸に咲いてしまった薔薇が、段々薄黒くなってきて、鎖骨より少し下の、女の子なら膨らみの始まるあたりが、ドレスの上から透けて見える。
このまま、なんだか、肌を通り抜け、身体の中まで、透けて見えそう。
吐き出す煙は、らせんを描いて、龍のように立ち登ってく。
龍はおねえちゃんのとこまで届くかな。
ぼくは、上半身だけ起き上がった。
春の生暖かい風が、吹き抜け、スカートの裾を波打たせる。ストッキング越しに風は、ぼくの足を撫でる。
思い切りたばこを吸い込んで、自然に瞼が閉じるくらいの心地よい感覚を楽しんでから、ふうと吐き出す。
今度は風のせいか、龍はぼくの顔の周りに漂う。
ぼくとおねえちゃんを間違えたのかな。
うん、と一つうなずいてから、ぼくは水筒と、くすりのカプセルを一つ取り出した。
これ一粒で、とってもよく眠れて、渦巻きの夢の中に入れる。
ぱくんと口に含み、麦茶で流し込む。
今日は、どこまでいけるかな。
…結局、降り出した冷たい雨のお陰で、ピクニックは台無しになった。
ぼくは、ふらつく足取りで、急いでバスケットと水筒を持って、家に帰った。
部屋に入って、カーテンを閉めた。出窓に飾ってあった、真っ赤な真っ赤な、たくさんの薔薇の花を、胸にかき抱いた。
ドレス越しの素肌に、棘が無数の傷を作った。これで少しぼくらしくなった。
もう、おねえちゃんと間違えないよね、龍。
薔薇を床に、ぽいと投げ捨て、ぼくはいそいそとドレスを脱ぎ、血液の滲む素肌を風に曝し、ドレスの染みを抜く作業に移った。
強力な漂白剤をもってしても、ぼくのＲＨマイナスの血は、なかなか頑固だった。
それでも、染みはかなり薄くなったので、そこでやめた。
ドレスを壁に掛けようとして、まだ足がふらついた。少し朦朧としている。
シャワールームに入り、温度も考えずに、赤の印のついたコックをひねり、熱い針の雨を全身で受け止めた。
胸の傷から、次々新しい、紅が生まれる。
生まれてくるぼくの血液たちを、いとおしく見つめていたお陰で、何時よりも長いシャワータイムになった。
優しく髪をなでつけながら、ブローする。
冷たい雨と熱いシャワーに溶けて、髪の色が落ちて、手が黒くなるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
純白のさらさらの下着を身に着け、黒のストッキングをはいてから、クローゼットから長袖のたっぷりしたブラウスと、黒のフレアミニスカートを出してきて着る。
柔らかい布の感触が、まだ熱い素肌にとろけそう。
部屋に戻り、またたばこ。空気を澱ませて、部屋全体にソフトフォーカスをつくった。
真紅のルージュを神経質に引いて、少し笑ってみる。
よし、合格。
ピンクのリボンもしっかり結んで。
そろそろ、寝ようか。もう少しゆっくり。
ふかふかのベッドに仰向け。あ、その前にもう一錠、くすりの追加。
手をのばして、床から薔薇を拾い上げて。はなびらを毟って、何枚か口に含む。
苦いような、甘いような不思議な味が、口中に広がった。
あとは、自分を覆い隠すように、散らばらせて。
何だか、髪の毛が疼く。少しずつ、黒の色素が、地肌に吸い込まれて、やがて色のない髪になるかな。
おねえちゃん、今度は、ちゃんと手を繋いでよ。キスもたくさんしてよ。身体がばらばらになるくらい、抱き締めてよ。
そしたら、ぼくが柔らかい首筋もあごのラインからずっと舐めて清めてあげる。栗色の細い髪も、華奢な腕も足も。
だから…。ね。
ぼくの白い指は、スカートの中に忍び込み、自分自身の向こう側にある見えない口に入り込んでいった。
身に着けた柔らかい、身体を飾る優しい繊維達も、指の動きと共に奇妙なダンスを躍った。
黒いストッキングに包まれた華奢で白い足も、何か別の生き物の如く、付け根は自分自身を押さえつけるように、先端はシーツを乱した。
薔薇のはなびらは、息を漏らして喘ぐ、ぼくを包み隠してくれた。
やがて、ぐるぐるとらせんのダンスを躍る、熱い鼓動が激しい吐息とともに身体の外に出たのと同時に、ぼくは口から赤を吹き出した。
唐紅の液体に混じり、噛み砕かれくしゃくしゃになった本物の薔薇は、龍のように空中に舞ったあと、ぼくの顔を覆い尽くした。
唇をなめながら、ぼくは深い眠りに落ちていった。
少女の幻影を、心に宿した少年は、少女のふりをして、長い旅に出かけた。
母の胎内に置き去りにされた、会ったことのない姉の元へ。
たばこの龍や薔薇と一緒に。
………眠り姫は、消毒の臭いの蔓延するベッドで、形のよい唇を半開きにして、覚めない夢を見ながら、横たわっています。
差し伸べられようとした手を、姫は自分で振り払ってしまったのです。