novels
ハイシン・ソウチ
1
貴殿のページを拝見しました。
貴殿の真摯な芸術表現に心を揺さぶられました故に、こうしてメールをしたためております。
貴殿の発する情報は、ポピュラリティを持ちつつも、重く息苦しい類の写真や絵画、小説作品だ、との客観的認識を得ることはた易いと思われますが、私個人としては、爽快感さえ感ずるような、健やかなものとも受け取れています。
特に消えてなくなりたいという度を越した欲求を、こうしてホームページの形にして発信するという部分において、ユニークな存在だと、私は認識しております。
貴殿の作品に挑発させられたからでしょうか。私も近い種類の文学的な表現として、私自身の欠落を物理的な欠損に準え、この文章へと昇華させてみました。
ちょっとしたいたずらですが、お気づきになられるでしょうか。
さて、いきなりこうした難解めいたパズルを送り付ける以上、私自身の人となりを語るべきだと判断しましたので、ここにそれを記します。
私は現在二十六歳の戸籍上、生物学上女性です。
小ぢんまりとした家庭の、揃った両親から一粒種としてこの世に排出され、現在に至っています。その後両親のＤＮＡを引き継いだ人類は、この世に現出しておりません。
それというのも、両親は、私をこの世に置き去りにするが如く、私を中心とした会話体系に移行し、私を中間に置かない限り双方のコミュニケーションさえも取れないように変貌していったのです。
そもそも子孫を残そうという発想自体が、自らのＤＮＡを乗せる入れ物を用意するのだという説に基づけば、それもむべなるかなですが。
きっかけだったのは、陳腐ですが、母親の暴力でした。書き間違いではないです。母親の父親に対する物理的な傷害が多発するようになったのです。
それが発展していくにつれ、私自身の環境も変貌していきました。
私は私を存在してはいけないものなのではないかと自問するようになり、一人遊びの内容も自然と非一般的なものになっていったのです。
例えば、私は一つのモノだと仮定し、モノに成りきることが私の精神の安らぎを得るような、そんな気持ち。
カーテンに包り、私はカーテンになり、布団に包まり、私は布団になる。ただ立ちすくむだけで私は背景と同化し、現世から消え去るのです。
私は私ですが、私ではない。私ではない私になり、モノとしての私に成りきる。私から私ではない私へ。
そんな遊戯がやがて私の精神構造の大半を占めるようになってきました。
もう一つ例示するとすればそれは人形でした。
大多数の少女と同じように私にも、かわいらしい家族を伴った衣装持ちの少女型人形が贈与され、その娘とともに擬似的な家族ゲームに興じることを両親は望んだのでしょう。
しかし、私は人形に対し、そのような擬人化を望まず、人形は人形として、却って私自身を「擬人形化」する遊戯へと進行していったのでした。
つまりはこうです。
私は私自身を人形と錯覚し、まるで人形の方に操演されるが如く振る舞い、モノとしての「着せ替え装置」に成ることを望んだのです。
具体的な行為としては、何もないのです。物体化したい対象の人形を傍らに携え、寝転がった状態などを保ち、ただ私の意識をその人形に移すのです。
塩化ビニールの肌、ぐねぐねと曲がる四肢、ブラシの通りにくい金色の髪。それらが私自身だと意識し、私は自然と人形の中に入り込んでいくのでした。
そして、私はやがてそれらを物理的、現実的なものとして、私自身の身体を変貌させたいと思うようになったのです。
長くなってしまいました。
現在の私については、いずれお話する機会を持てれば、そのときにでも。
それまで、どうかお元気で活動を続けられますよう。
2
拝啓
メールありがとうございました。
既にホームページを開設し、800日が流れようとしていますが、貴方ほど興味をそそられる人からのメールはほかになかったのです。
奇妙な性癖と申しましょうか、そういった貴方の人となりを、非常に興味深く読ませていただきました。
それにメールを覆い尽くす、「仕掛け」。
物理的な欠落だと示唆されていましたので、私は、私の「濁ったオトのない小説」を準えた試みであるというところまでは、すぐに思い当たったのですが。そこからが勝負でした。
いくら読み返しても、何が欠けているのかがわからない。正直、すぐにレスメールを差し上げて、教えてもらおうかと思いました。
が、ここで諦めてしまうことも、私のプライドが許さず、結果、私は多少強行策として、まず、「あいうえお」のマトリクスを作成し、貴方からのメールをすべて平仮名化し、チェックしていったのです。
するとどうでしょう。見事に私の読みは当たったようです。
「っ」や、「ゃゅょ」を除き、濁ったおとや、「ぱぴぷぺぼ」を含めて文字は消えました。たった一文字を除いて。
それは「あ」でしたね。
最初の文字であるその文字をはずすことは、明らかに、自らの「最初の箇所」もしくは、「もっとも基礎となる箇所」の欠落である、というメッセージであると思われます。
しかし、私にはそれらの欠落が何かということを追求するよりは、今の貴方が気になります。
人ではないものになりたいと憧れた少女が大人になると、どのような状況になるのか。私はそれに興味があります。
実際におもちゃになってしまったのでしょうか。それとも、実際にモノになってしまったのでしょうか。もしくは、まったく違う方向に。
例えば、身体の改造を行っているとか……。タトゥーやピアスなどの、人に別の器具を装着する試みへと。
海外にはそういったサークルがあります。植毛技術とタトゥーの技術を用いて肉食獣になることを望む人たち。自らの意志で四肢を切り落とした人たち。性器に切れ込みを入れるなどはポピュラーであるとさえ言われています。
私の拙い脳味噌は、それを想像します。
もっとも、そういった想像がすべて私の作風の根であるといっても差し支えないのですが。
メタルの身体を持った、まだ見ぬ貴方を想像することさえ、私はしてみたのです。それはなかなかに不可思議で愉快な光景でした。
貴方は、私のページを称して、「消えてなくなりたいという度を越した欲求」と表わされていました。これは私も言い得て妙であるなと思った箇所です。
見ての通り、私のページに置かれているモノ達は、いびつです。
私の力の限りということもありますが、商業的なモノとして世の中に流通するタイプではないです。
例えば、溶けて無くなりつつある女性のイラスト。
この辺りが、ひょっとすると貴方の性癖にヒットしたのかもしれないですね。恐らくイメージしている情景は似通ったものであったと推測します。
私はこれを描いているとき、少しずつこの女性に色を塗っていきました。
背景の前に立ちすくむ一人の女性を描き、それを消し込むように色を重ね、やがて彼女は背景に溶けていきました。
そういえば小説にも書きましたね。自らの身体を別の色に染め上げ、人としての「私」を捨て去り、ただのオブジェと化すような。
今私は、一つのイメージを抱き、制作にかかろうと思っています。
これは大きな賭であり、野望です。ひょっとすると貴方にこそ、このイメージがあてはまるのかもしれないなと思っているところです。
お手伝いしていただけるというのなら、これ以上の悦びはないと思われます。
ただ、それには衣服を脱ぎ捨てた身体が必要ですので、たった一度のメールのやりとりで決めてしまうべきではないですね。失礼。ちょっとした思いつきをしゃべってしまいました。
また、長くなってしまいました。
もし、よろしければ、是非、その後の現在の貴方について、教えていただけたら幸いです。
敬具
P.S.お気づきになられたでしょうか。私もこのメールの中で、とある語を欠落させています。その語の選択には、あまり理由はないのですが。
3
貴殿よりの返信、ありがたく拝見いたしました。
いきなり奇妙なメールが舞い込み迷惑を被ったはずなのに、実に好意的に受けていただき感謝至極であります。
ああ、「あ」の字が使えるのは、楽ですね(笑)。つまり、正解です。理由も言い当てられてしまいましたね。
ちなみに、前回の貴殿のメールに足りなかったのは、「ん」ではないですか？これは、私のメールに対する返歌ですよね。多分、偶然ではないでしょう。
さて、今回は現在の私、についてお話させていただきます。
貴殿よりの返信に、身体の改造をしているのではないか云々たるくだりがありましたが、それについてははっきり違う事実を宣言いたします。
私は子どもの頃より、さまざまなモノになってきました。人形であったり、背景に同化したりであるのは、前回のメールに記したままです。
しかしそれは、その時点でなりたいものになるのであって、恒常的にそれになりたいわけではないのです。
簡単に言えば、私は色々なものになりたいのです。ですから、後戻りできない刺青や肉体改造は私の好みではないのですね。
擬似的にそれを行いたい憧れはあります。
私は成長し、経済的にも自立し、親から離れ、暮らし始めました。そうなれば欲求は深くなり、実際に私自身をモノ化することが可能なのではないか？そう、思い始めました。
さあ、それではどうしたらよいのでしょうか。
私は手始めに、自らの身体の色を別のものに染めてみたい欲求を適えたく思いました。
今までの肌色ではない、そう例をあげれば金色などに輝く身体はキレイで、私はオブジェになれるのではないか、そう思ったのです。
そうした手本が、メディア上にあったのも幸いしました。
それには、相棒が要りました。私は通っていた美術大学で、仲のよかった女性を相棒に選びました。
彼女は写真家を目指し、過去にそういった撮影会で、金粉を全身に塗った女性の写真を撮影した経験があったのです。
彼女は私の提案を喜んで受け入れてくれました。彼女はこう言いました、
「私、実はあの撮影会が忘れられなかったの。別の色に輝く人間の肌があんなにきれいだなんて思っていなくて。私は夢中でシャッターを切っていたのよ。でも、あれきりなかなかそういう機会に恵まれなくて。何度自分の身体で試そうか考えたわ。まさか、身近にそんな欲求を自然に持った友人がいるなんてね。」
さっそく、私たちは、準備に掛かり、次の休日には、すっかり私の身体は金色に染まっていました。
少しずつ金を身体に塗っていく作業はもどかしくもありましたが、それに同化していく喜びの欲求を満たしてくれました。
鏡に映る私は、まさに金色の観音像のようでした。うまく表すのは難しいですが、確かに私はその瞬間、意識の中で憧れていた「物体」に変身できたのです。
しばらく、私達のコラボレーションは続きました。
もちろん、金色だけではなく、メタリックな色を皮切りに、白、黒、赤、青、ピンク。およそ思い付く限りのペンキを私は身に纏いました。そのポップな色合いに、私は満足していました。
その作業が体力的につらかったり、後片付けに時間がかかったりしても。彼女がやってくる休日には私は興奮して眠れなかったほどです。
ただ、本音を言えば、不満がありました。
私は別の物体になったならば、身体を動かしたくはありませんでした。私はモノになりたいのです。オブジェであるかのように扱って欲しいのです。
でも、彼女は写真家ですので、動きのある絵を撮影したい。そこに、溝が存在しました。
この溝を打開するために、私は彼女に身体を染めてもらい、その後しばらく彼女がいるうちは、彼女の要求に従い、様々なポーズをつくる。でも、それ以降は、私を放りおいてもらうようにしました。
家にいる場合などは、そのまま彼女は帰宅してしまいます。私はただモノになったまま、部屋に横たわっているのです。ああ、至福。
無論、数時間もすれば、身体が発熱しはじめ、やむなく私は起き上がり、色を剥がす作業をせねばならないのですが。
彼女に撮影していただいた写真をいくつかお送りします。無論、全裸です。パンツもはいていません。でも、ほら、私らしき人間は見えてこないでしょう？
気に入ったものだけを送付します。彼女が撮影した写真には、却って私が人間である事実が明確にあらわされてしまうものが多かったのですが（彼女はそうしたヴェール一枚を挟んだ、女性の身体のエロティシズムを表したかったのですから、当たり前です）、これらは、そこに私がいる現実さえわかりにくいものです。
背景には色々なものが用いられています。屋内しかも、少し散らかった部屋のものは、かなり初期ですね。私の部屋の中に場所をつくり、撮影したものですから。
最近のものは、屋外です。
町中で撮影したものも実はあるのですが、さすがの私もそのケースではモノになりきれませんでした。人間らしいですか？私も少し不思議ではあったのですが。
主に、廃虚や、山林。自然に同化していくのは、楽しいですよ。
ああ、また長くなってしまいました。
そうそう、一度お会いして、現在イメージしておられるものについて、教えていただけませんか？私でよければ、協力が可能かもしれませんので。
それでは、お返事心待ちにしております。
4
待ち合わせの喫茶店に、私は30分も早く到着してしまった。
最初のメールをもらってから、わずか一週間しか経過していないのに、私たちは、一つの性癖を媒介にして急速に近づきつつあるように感じられた。
無論、それは私の妄想かもしれないし、彼女はあくまで作品になりたいとに思っているだけかもしれない。
前回のメールに添付されていた画像は衝撃的だった。
私もボディペイントや、タトゥー、果てはメッシィ系のサイトを渡り歩き、画像を集めたりしていたが、彼女ほど徹底して自分を隠蔽するのに執心していたアーティストはいなかったように思う。
金粉や銀粉をまとった身体は、本来、生まれたままの姿よりも尚一層、身体であると主張する。それが魅力であり、一部に熱狂なファンがいるのにつながるのだと思っていた。
しかし、彼女の写真では、金粉はあくまで彼女自身の肌を覆い隠す薄絹でしかない。ひょっとするとCGなのではないか？と思われるほど、その中の彼女には精気が存在していなかった。
無論、メールでの彼女、その後電話で話した彼女のイメージからすれば、それは必ずしも正しくないかもしれない。
少なくとも私と会話を交わした彼女は社会性を持った、普通の女性であったのだし、確かに存在していた。
また、別に、ペイントだけではなく、実際に自らの身体を物質で覆い包んだ写真もあった。
あれは、食品用ラップだろうか？ぴったりとボンデージのように身体を包みきった彼女の表情はわからなかったが、決して陶酔した表情ではなく、まるでレンジに入れられる直前の冷たい食品と同じであるかのようだった。
中には、黒い大きなビニールのごみ袋の写真もあったが、あれは中に彼女がいたと見るのが自然なのであろう。
前回の彼女のメールからは「ひ」と「と」の文字がかけ落ちていた。当然、そこには「人」がいないというメッセージなのであろう。
実際、それらの写真から、彼女の顔を特定するのは難しかった。
そのため、今日待ち合わせをするにあたり、お互い服装の特徴をあげた。私は車の雑誌を持っており、彼女は、白いカバンを持ってくるという目印を設定した。
私は、ぬかりないよう、喫茶店の入り口が見渡せる席に座り、アイスティーを注文した。テーブル上に目立つように車の雑誌をぽんと放り投げ、そして、改めてプリントアウトした彼女の写真を封筒から出してみようとしたその時だった。
「あの。おはようございます。昨日電話でお話したものですが。」
快活な音声が頭上から降りてきた。
私はふと見上げて、即座に子細に観察した。
身長は165センチ程。
背丈は私とほとんど同じであろう。細いわけではないが、きっちりとめりはりのある身体をしていると思った。
服装はシンプルでゆったりとしたニットセーターにグレーのパンツ。シンプルというより、わざと目立たない服装をしているように見られる。
顔つきは美女というよりは、愛敬のある可愛いタイプだろう。年齢よりも5歳近く幼い印象だ。
肩にかからないくらいの短めの髪にふわっとしたパーマをかけ、髪の色は不均等に赤味がかっていた。
実際、あんな重苦しいメールを送り付けてくるようなタイプにはとても見受けられなかったのだ。少なくとも、貴殿という台詞は似合わない。
呆けていた私に向かって彼女はわずかに不安感をにじませながら言った。
「あ、の。ハルナさんですよね？」
私は慌てて座席を示しながら、そうです、よくいらっしゃいました、と言った。
彼女は途端に相好を崩し、よかった、人違いをしちゃったかと思いましたと笑った。
5
私の示したプランは簡単だった。
ガード下などのコンクリートの壁面に絵を描く。しかし、そのときに、本物の人間をマスキングに使うのが、希望だった。
そう伝えると彼女はあっさりと言葉を発した。
「なるほど、私はコンクリートの壁面になるのですね？」
＊
喫茶店の裏側の１００円パークに停めてあった車に彼女と共に乗り込んだ。
彼女は最近読んだ本や、テレビの話をした。肝心なことは何一つ聴かなかった。さっきのあれでビジネスとしての用件は済んだとでも思ったのだろうか？
例えば、絵の具は何を使うのか？
終わった後にシャワーを浴びる場所はあるのか？
どれほどの時間、そうすれば終るのか？
車の後部座席に積まれた段ボール箱で、彼女はおおよそのことは悟ったのだろう。
そこには、絵の具が準備されてたわけではなく、壁の塗布に使うペンキそのものが、十数色分準備されてただけだった。
普通、使う原料は、身体に負担をかけぬようにする。ポスターカラーであったり、油で溶く顔料であったりするのだ。
私はそのような知識を持ってた。にも関わらず、私は、ラッカーを含め、人間に有毒である塗料を選んだのだ。
果たして。
そこまで深く、二人の思惑は合致してただろうか？
３０分ほど車を走らせた。到着したのは、昨年出来たばかりの鉄道新線の高架下だった。
まだ工事で使われたであろう工具なども散らばってた。周辺は無人であり、まさにうってつけだ。
「ここですね？」
と、彼女が助手席から身体を乗り出した。心なしか、彼女の目は光を増してるように感じられた。もう既に、このコンクリートとの融合を始めようとしてるのか。
ハルナさんに何か準備は必要ですか？と問われた。
しかし、私は描く塗料も全て、後部座席に準備してたし、描くべき絵も頭の中にできあがってた。特には、と伝えると、彼女は軽くうなずき、おもむろに洋服を脱ぎ始めた。
季節は真冬には早めだが、街にはコートを着た人が行き交う頃だった。寒かろうと思った。しかし、そう声をかけることはできなかった。
彼女はコンクリートの壁面だったからだ。
彼女は壁の前に立った。両手の指をぴんと伸ばし、背筋を伸ばした。少しだけ彼女の身体は震えてるように思えたが、私はそれに気付かぬことにした。
私は車の座席からラッカーを取り出した。そして、まずはキャンバスを描くのだ。
彼女の身体にラッカーがかかるとき、少しだけ彼女は閉じた目に力を込めた。でも、それだけだった。
プラモデルに塗料を塗るときに、窓ガラスなどに付かないように貼る、マスキングテープ。次に、彼女はそれになろうとしてた。
ラッカーで下地を作った後に、私は刷毛をとりだし、ペンキに突っ込んだ。
人がそこにあると思ってはならぬ。若干の凹凸がある壁面に絵を描くだけだ。
少し離れて改めて壁面を観察すると、彼女は既にそこになかった。盛り上がった女のカタチをしたコンクリートの出っ張りがあるだけだった。
何時間が経っただろうか。陽が傾き始める前に、なんとか私は私の創造してた絵を描きあげることができた。
抽象的ではあるが、私なりに創造した、「朝と夜の月」の絵であった。
私はカメラを準備する。三脚にカメラをセットした。
そこから覗けるのは、ただの壁画だった。なんの変哲もなく、そのままの壁画だった。
ひたすらシャッターを切った。重ねて撮っても同じものであるのに、私は何度もシャッターを切った。
そして。
壁画に歩き寄った。
壁の部分が、熱を帯びた呼吸をしてた。
当然であろう。何重にもペンキを塗り重ねられた人の身体は、内側の熱の発散方向を失ってるのだから。
私は、壁の部分、丁度「手のように」盛り上がってる場所を掴んで、きつく抱き寄せた。
くっきりと、「まるで人がそこに在ったかのような空白」が、出来てた。
私はそれを確認し、満足げに微笑んだ。
そして、彼女の身体からの熱と、ペンキを全身に浴びながら、彼女のマスキングが施された「朝と夜の月」に向かって、また、シャッターを切った。
その時、私の心は激しく動かされてしまってた。もう、私の当初の企てなど、どうでもよくなってた。私は彼女になりたくなってたのだ。
＊
彼女を後部座席に寝かせて、私は車を走らせる。
ペンキを落とすための準備は、もちろんなかったので、バスタオルにだけ彼女をくるんで、彼女のウチまで送ろうとしたのだ。
彼女は、ぜえぜえとした呼吸の中から、ぽつぽつと喋った。
「ハルナさんの作品のお役に立てましたか？」
彼女ははじめにそう、声を発した。
なんとなく、彼女は私に向かって、もう口を開かぬだろうと思ってたので、少しびっくりしたが、私はもちろん完璧だと答えた。何かがまた、私の中で溶けた。
すると彼女はペンキが固まり、がちがちになった鮮やかな顔のまま、少しだけ笑った。
6
あれから数日後。
私のうちへ五箱の荷物が届けられた。
差出したのは、彼女だった。
私はゆっくりと荷を解く。
まず、頭が出てきた。
次に、ぽろぽろと、足、手、胴とばらばらになった彼女が現れる。
これは彼女ではなく、彼女の抜け殻だ。
あのあと彼女が、自らを石膏で型どりしたもののようであった。
パーツの裏側に私の「朝と夜の月」がわずかであるが、付着してたことから発覚しただけであるが。
くわえてペットボトルの中に液状のものがあった。中には目玉のようなガラス玉が二つぷかぷかと浮かぶ。
箱から全てのパーツを出し終えてから、私は人のカタチになるように、並び替えた。
隙なく、すべてがあった。少し足を曲げ、手のひらを下にして、手を伸ばした格好で、彼女の抜け殻があった。
明らかに彼女からの誘惑だった。
私にもかのようなのぞみがあることは、既に読まれてたのだから、次は私に手がさしのべられたのだ。是非、お気軽にどうぞ。彼女の声が聞こえた気がした。
私は、洋服を脱ぎ捨てた。
次に、５０パーツはある、「彼女」を自らの身体にぴたり重ね合わせて。
肘などにあたる個所はあとからつけることができるようはかられてたので、作業は滞りなかった。
私は少しずつ彼女になってゆく。
無駄なく、私は彼女の内側に納められてく、ぐにゃぐにゃとした臓物、すなわち私だ。
ラストに顔のパーツをつけた。
ほら。
どう？
私は、ゆっくりと、あるはずのなかった、彼女の熱にくるまれながら軟らかな眠りに落ちた。
私には。
あのあと、ふたたび彼女は高架下に出向き、絵となって、まさにこの時刻もあのままであるような、錯覚を覚えた。
*
ハイシンソウチで行った仕掛けについて。
まずは、こちらのマトリクスをご覧ください。
| あ | か | さ | た | な | は | ま | や | ら | わ | が | ざ | だ | ば | ぱ |
| い | き | し | ち | に | ひ | み | り | ぎ | じ | （ぢ） | び | ぴ | ||
| う | く | す | つ | ぬ | ふ | む | ゆ | る | を | ぐ | ず | （づ） | ぶ | ぷ |
| え | け | せ | て | ね | へ | め | れ | げ | ぜ | で | べ | ぺ | ||
| お | こ | そ | と | の | ほ | も | よ | ろ | ん | ご | ぞ | ど | ぼ | ぽ |
この小説では、各章ごとに、ある語を欠落させています。
文中にも明かされている部分はありましたが、第一章では「あ」が。第二章では「ん」が、第三章では「ひ」「と」が、それぞれ抜け落ちています。
もちろん、これは、物理的な欠損になぞらえた、メタファのような「お遊び」です。
しかし、これを作るのは、非常に手間がかかりました。
ある語を使わずに、文章を書くというのは、既に「清らかな世界へ」にて、「濁音を使わない」という試みとしてやっています。
今回はそれを超えるものをやりたいなあというのが、第一のねらいでした。
書きはじめてみたらさ、これが、その語を使わずに文章を書くというのは、出来るんですよ。割と。
だけど、「それ以外の語をすべて含ませないと、それが無いことに気づいてもらえない。」というのが、非常に重く圧し掛かったんですね。
なんとか書き上げてアップしたのはいいんですが、あとからあとからミスが現れて。いくらチェックしてもしきれていないんだなあと思い、ずいぶん長い時間公開を停止しちゃいました。
ならば完全版を作ろう！と、改めてチェックをはじめたんだけど、これが面倒でねえ。
すべてひらがなで書き直して、一個一個検索していくの。気が遠くなりましたですよ。自分で考えたとはいえ、間抜けなことやってるなあとか。
でも、なんとか苦心の甲斐あって、ミスはほとんど無くなったと思っています。しかし、まだあるかも。もう一度調べるのは嫌だ（笑）
っていうかですね、これを読んでくださる方が、同じように、マトリクスを作って消しこみをやってくれるなんてことは有り得ないわけで。
見えているひらがなだけだったらともかく、漢字もすべてばらすなんて、誰がやるかよっ！って私も思う。
そういうわけで、このネタバラシのページの登場と相成ったのです。
第四章でなくなっている文字は、「こ」「え」＝「声」です。
第五章でなくなっている文字は、「い」「み」＝「意味」です。
第六章でなくなっている文字は、「そ」「ん」「ざ」「い」＝「存在」です。
大体だなあ、「い」とか「ん」なんてなくしちゃったら、日本語ちゃんと流れないっすよ（おい）。
もちろん、この着想には、筒井康隆氏の「残像に口紅を」というとてつもない作品が前提としてあります。
あれはもっと凄い苦労して書いているんだろうね。このくらいでへこたれていちゃいかんよなあ。